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妖怪について語る時に我々の語ること

柄にもなく私は愛について考えている。
愛とは何か。
酒は呑んでいる。もちろん。
しかし頭は妙に覚醒している。
ピエール瀧くらい覚醒している。
愛、とは何か。
わからない。
考えてもわからない。
考えれば考えるほど、わからなくなる予感すらある。
だけどこれだけは云える。
この本は愛に満ちている。
私は親しい人間を誘って芸術の森に行った。
今年の暑い夏。6月だったか。7月だったか。
狙って行ったわけではないが、ちょうど水木しげる展をやっていた。
とてもツイていたと思う。
小学生の一軍が来ていた。引率の先生らしき大人が数人と。
小学生たちは思い思いに作品を観、メモをとり、絵を描いていた。
みな可愛かった。3年生くらいだろうか。同じ帽子を被っていた。
展示室の床にほとんど這いつくばるようにして、一心不乱に水木しげるの作品について感想みたいなことを書いている子もいた。
この可愛い子供たちこそ、ちょっとした妖怪に見えなくもなかったが、私はその風景をいいもんだなあと思いつつ、眺めていた。
それにしても会場は作品を考慮して照明を暗くしていたのに、子供たちはよくもこんな暗いところで字を書いたり絵を描いたり出来るものだと感心してしまった。老眼の私にはとても無理である。
私がそこであらためて思ったのは、水木しげるの画力の凄さである。
あたりまえだとお叱りを受けるが、あらためて絵がうまいと思った。
それはもう、すさまじい。狂気と幻想の異界を細かく描写している。まるで実際そこに行って見てきたように。
昭和の田舎屋敷の勝手口の風景。森とも地獄への道とも知れない鬱蒼とした架空の風景。人間業を超越したものを感じた。
それらいくつかの絵を前にする私も知らず、その世界に引き込まれている。
身体ごと持って行かれて、見回せばモノクロのオドロオドロした霧の中にいるのだ。黴の匂いや不穏な獣たちの鳴き声、得体の知れない何者かの気配が生々しく漂う。
先の戦争で水木しげるがくぐり抜けてきた修羅場は、この世であると同時にこの世ではなかった。理不尽な死。飢えと欲望。あちこちに転がる夥しい数の死体。
すなわちその過酷な体験が水木しげるの妖怪世界に地続きでつながっているのだ。
医師である久坂部羊が自身の仕事を照射しつつ水木作品を解説する。
そしてその中から抽出したほんの一部の冴えた一言を皿にのせ読み手に差し出す、その語り口調は作品愛に満ちている。
そして当然原作者である水木しげるに対する愛と畏敬の念をも。
時に度を越したシニカルささえも漫画というフィルターの中で、人間の体温を忘れない。だからこそ怖いし、同時に救いもあるのだ。
「人間は死んだほうがいい」といった身も蓋もないような言葉すら、それは哲学である。
本当の平等や真実を、嘘や欺瞞を、名誉や侮辱を、プライドや劣等感を、水木しげるはいっさいぶれず残酷なまでにとことん活写してゆく。
子供を相手にする漫画だからといって決して容赦はしない。
いや、子供相手だからこそ真剣なのだった。
取り上げた作品の多くにねずみ男が出てくるのがチャーミングだった。
ねずみ男が作品にやたらと出てくる。そのことがとてもチャーミングだった。
愛とは何か。
ことさらに、愛とは呼ばなくても伝わるもの。
むしろそれは時に、やもするとうっかり見過ごしてしまうものなのかも知れない。


冴えてる一言 久坂部羊


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