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04 嘉吉の乱・・二皇子暗殺

1,嘉吉の乱

ところが、嘉吉の乱により滅ぼされた赤松家の家臣が、お家を再興させるため、当時、北朝方や将軍家が血まなこになって探していた神璽を南朝から奪回することを企てました。

2,二皇子暗殺

長禄元(1457)年12月2日の夜、赤松の家臣により2つの御所が襲撃され、自天王は18歳の若さでこの世を去り、忠義王は御所で討死、

あるいは、その場は死地を脱したものの、川上村の高原で最期を遂げたと伝えられています。

この惨事はいちはやく川上郷に伝えられ、郷土たちは、自天王の首と神璽を手に逃走する赤松の郎等を迎え撃ちます。

塩谷村(北塩谷)の名うての射手・大西助五郎は、郎等の頭であった中村貞友を見事射止めたと伝承されています。

雪の降る中、自天王が狙撃された場所
忠義王が狙撃された行宮の場所
大西助五郎の石碑
近くで大西助五郎の石碑を見る
北塩谷を見ようとしたが、ダム計画により川底に沈む
忠義王が逃げ、川上村の高原で最期を遂げたとされる場所から見る集落

3,暗殺事件時、上北山村周辺の警備では?(天ケ瀬 八坂神社古文書より) 

現在の奈良県吉野郡川上村と上北山村の2つで警備を担当しており、

上北山村の天ヶ瀬、伯母峰峠、小像あたりを担当しており、また四人の武士のうちの一人が、「射場兵庫」なる人物が伯母峰峠にて戦死をしました。

まずは、上北山村天ヶ瀬、伯母峰峠あたりのことを説明すると、

大正年間の村史によると、あるいは昭和5年の「我が村」などの「八坂神社」の記述によると、長禄四年とは「北山宮」が暗殺された室町時代、長禄元年(一四五七)から三年後のことであり、この頃、既に集落を形成していたことは確かである。

更に由緒沿革の記述には、「由緒不詳本社ハ其祀年代ヲ詳カニセスト雛モ往古ヨリ現在ノ位置二鎮座セリ口碑ノ傳フル所二依レバ大字ノ始祖ハ四百数十年前、

奥玉大夫刑部治郎射場兵庫和佐美兵衛等ノ武人ノ居ヲ本社附近天ヶ瀬ノ山腹二定メテ潜居シ平素奉仕信仰セル守神ノ霊ヲ鎮守ノ神トシテ奉祀シ後年更二京都祇園社二請フテ具分霊ヲ併祀シ今二至ル」…奥玉大夫刑部治郎射場兵庫和佐美兵衛

この記述の中で特に注目すべきことは、四人の武人の名があり、このうち、射場兵庫なる人物とは、長禄の変で北山宮が御不幸にあわれたとき、神器と宮の首級を奪還のため、郷人と共に積雪の山道を追跡し、その際に伯母峰で戦闘となり、ここで戦死したと云い伝えられている人物であります。(ふるさと 天ヶ瀬 岩本速男氏 2005出版より)

4,暗殺事件時、上北山村周辺の警備では?(滝川寺 古文書より)

小像あたりすなわち北山宮周辺のことについては、滝川寺にある古文書によれば、

土地の地侍で長禄の変を身をもって体験した人々か、あるいはその子孫でぐらしかわからない。

古文書に出てくる「小瀬」は、現在の小像のことを指します。

滝川寺には北山宮の死後、三十三回忌に相当する延徳弐年(一四九○)三月、小瀬の一結衆が現在安穏往生善処の志を述べ、

五部大乗経を勧請していることが、その墨書の奥書によってわかる。

なかでも「仏遺教経」の奥書に円南帝崩、去康正丁子臘月二日夜赤松力徒殺奉ル、此経勧請一結衆之姓名在斯、所謂

小瀬分 口玉置将監 大屋宰相 中平兵衛五郎 更屋帯刀 中家左衛門五郎 同兵衛次郎 下平兵衛太郎 上平左衛門次郎 

木玉置民部 木下左衛門次郎後 大屋宰相大屋新左衛門 更屋●● ●●衛門三郎 同将監 上宅左衛門九郎 中平助同弾正 田井上衛門 射場弾正

栃本分 中宅左衛門三郎 竹下刑部 大平兵衛太郎 同兵衛次郎 同左衛門四郎 帯刀允 中平兵衛次郎 同左衛門次郎 下宅助五郎 垣内半兵衛四郎

●●●康寧災難不起寿算綿遠子孫繁茂之所如件 第一当寺御建立之年号月日 有之両村之次第書 宅念

とあるのは「丁丑」の誤り、康正三年は九月廿八日で改元し、長禄元年となっている。

長禄元年十二月二日夜、赤松浪人の襲撃をうけ南帝の殺されたことを物語る南朝側の有力な史料であるし、

ここに名を連ねた人々は土地の地侍で長禄の変を身をもって体験した人々か、あるいはその子孫である。

そして「大方広仏華厳経巻第一」の奥書に

右口経者和州吉野郡神河三村之小瀬

一結衆等謹奉賀請此修多羅当所之

惣蘭者奉寄附竜川巷祈村裏康泰固

就中結衆之中栃本帯刀允平盛守次為別而

本願者拠価直半分之財産抽其懇志之処也

伏翼口現世安穏往生善処之志也

干時延徳弐年庚戊三月日 施入之敬白とあって延徳弐年三月、「小瀬一結衆」の施入によるものであることがわかるし、

なかでも栃本帯刀允平守次が施入の半分を負担していた。

栃本帯刀允平守次とは前記結衆姓名、「栃本分」のうちにある「帯刀允」のことで、もっとも有力な地侍であっただろう。

栃本はこの頃、小瀬のうちの一宇名であった。以上滝川寺を中心に小瀬の現地に残る後南朝関係の史料を述べた。

(上北山村文化叢書 上北山村の歴史 付建築 美術工芸 昭和39年より)


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