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二兎を得る 〜イチローの珍記録より〜

 1994年6月12日。
 残業を終えて帰宅すると6歳になる息子が出迎えてくれた。笑顔の息子を抱き上げて居間に入る。妊娠中の妻が2歳の娘と一緒にシチューを食べていた。いち早く食べ終わった息子はテレビで野球中継を見ていたらしい。
「ただいま」と声をかけ、汚れた作業着を洗濯機に放り投げて部屋着に着替えた。妻から先にごはん食べるかと聞かれ、「うん。いいよ、座ってて。自分でやるから」とテレビに視線を移した。
千葉ロッテ対オリックス。延長10回の裏。3対3。オリックスが点を入れればサヨナラ勝ち。こういう場面はいつ観ても元野球少年の血が騒いでしまう。 急いでご飯をよそって、その上にまだ温かいシチューをかけ、スプーンを持ってテーブルに座った。
「どっちが勝つかな?」
 問いかけると、息子はペタリと床に座りこんだまま何も言わずに可愛く首を傾げた。息子は最近野球に興味を持ったばかりで、まだルールもよくわかっていない。ただ、生まれて初めて興味を持った選手がオリックスにいた。
 それはパ・リーグで現在打率首位のイチローだった。開幕からヒットを量産し、4割近い打率でトップを独走している。去年まで本名の鈴木一朗だったのだが今年から仰木監督の勧めで登録名をイチローに変更した途端の大活躍だった。このままヒットを打ち続ければ、50年前に「ミスタータイガース」と呼ばれた藤村富美男が記録した191本のシーズン最多安打を更新し、前人未到の200安打に到達するのではと新聞が騒ぎ立てていた。
 そう簡単にはいかないだろう。と私は思っている。プロ野球はそんなに甘くない。イチローは細い体を振り子のように動かして天才的なバットコントロールでいとも簡単にセンター前にボールを弾く。 息子にはそれが魔法ように見えていた。ボテボテの内野ゴロでも風のように一塁ベースを走り抜けてセーフになるのもカッコいいらしい。
 妻から今日の子供たちの様子を聞きながらシチューを口の中に放り込んだ。子供たちが食べやすいように細かく切られた具材は少し物足りなかったが、柔らかく煮込んだ鶏肉が美味しかった。ようやく食べ終わった娘が息子を遊びに誘った。テレビに釘づけの息子は娘を抱きかかえた。最初は息子の腕の中で騒がしくしていた娘だったが、次第におとなしくなり息子と一緒にテレビの画面を見つめていた。私は大きくなった妻のお腹に手を当てた。お腹の子供は平均よりも大きく育っているそうで、最近は何度もお腹を蹴り上げて、「早くここから出たい」と自己主張していた。
 3人目は男の子らしい。家族全員が新しい家族の誕生を待ち望んでいた。
「やった。イチローだ」
 と息子が声を上げた。テレビに視線を戻すとツーアウト満塁だった。打順はイチロー。一打サヨナラの場面。こういう場面で打順が回ってくる選手は「持っている」と言われる。 もしかしたらイチローは、その「持っている」選手なのかもしれない。
 イチローの今日の成績が表示された。レフト方向の二塁打。センター前ヒット。バントヒットで3安打の猛打賞。今日また打率を上げていた。こんな緊迫した場面でもイチローは顔色ひとつ変えずにバッターボックスに立っていた。 ルーティーンのようにバットをクルリと大きく回す。それからゆらゆらとバットを揺らしながらピッチャーを見据えた。
 千葉ロッテのマウンドは成本。今年から抑えを任されている右投げの若手投手だった。
「頑張れイチロー」
 と息子が応援するのを聞いて、私は成本を応援したくなった。 息子が父親ではなく他の男に憧れているのが単純に悔しかったからだ。
「頑張れ成本」
 と声には出さなかったが、妻のお腹を撫でながら、イチローが三振するのを願った。カウントはツーワン。あとワンストライクで三振だ。 一日に4安打なんてそうそう出来るもんじゃない。それがサヨナラヒットならなおさらだ。頑張れ成本。私は妻のお腹を撫でながら願掛けをした。
「イチローが三振したら、お前はプロ野球で最高の投手になるぞ」
 それを聞いて妻が笑った。
「それじゃあイチローが打ってオリックスが勝ったらプロ野球選手になれないの?」
 それは困る。息子をプロ野球選手に育てるのが私の夢なんだから。
「じゃあ、オリックスが勝ったら、お前はプロ野球で最高の打者になる。これでいいだろ」 「それはズルい」
 と妻は笑った。
 成本の4球目。イチローのバットが空を切った。三振だ。しかし、ボールはキャッチャーミットを掠めて後ろに転がった。イチローがそれに気づいて1塁に走る。3塁ランナーがホームに突っ込む。
 セーフ!
 振り逃げでサヨナラ勝ち。
 劇的な幕切れに興奮したアナウンサーが叫んだ。 解説が日本プロ野球史上初の珍記録だと語っていた。
 イチローが三振したのに、オリックスが勝ってしまった。
 私はさっき何て言った?
 イチローが三振したら最高の投手になる。 オリックスが勝ったら最高の打者になる。 私は震える手で妻のお腹を撫でて、まだ見ぬ息子に語りかけた。
 お前は最高の投手で最高の打者になるぞ。 早く産まれてこい。
 それに応えるように妻のお腹からトントンと私の手に振動が伝わった。
  翌月、我が大谷家に待望の次男が誕生した。 その息子の名は……。



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