天罰が下る
教祖様が信じなさいと言われる
自分もその通りと思っているなら信じるけど、
もし、自分はそうじゃない、もしくは疑問があったとしよう!
でも教祖様が言ったから信じるべきか、それとも自分に忠実であるべきか。
そこには信じなかったら天罰が下る、災難が降り注ぐなどの畏怖の心が湧いてしまう。
そのため信じなければと考えてしまう。
そう悩んでいる間に悪い事が起こってしまうととんでもない事になってしまいます。
それこそ
罪悪感
に支配されてしまいます。
誰がなんと言おうと自分の心に忠実になるためには勇気も必要なのですね。
なんでお前はわからへんねん!
悪いと思ってないからだよ!父ちゃん!
なんでお前はでけへんねん、
する気がないからだよ!父ちゃん!
なぜ大人なのにそんな事もわからないのだろうか?
子どもがその気にならない間は何を言っても無駄、無駄、じゃー放棄するの。
違うよ!
見守るの、見守るというのはボクシングで言えばカウンターパンチ、相手に合わせること。
子どもがサポートを求めてきたら親は死にものぐるいで全力投球。
親の人生のシナリオと子どもの人生のシナリオは違うんだ、別のものだ、親は子どものシナリオでは脇役なんだからね。
見守るという姿勢は思えば仏様の姿勢ではと考えてしまう今日この頃です。
でももしも子供の歩いている先にはっきりと崖が見えたら?
その時もやはり死にものぐるいで阻止だな!
この世を生きるという事は、無事に日々平安に生きていくためには、心の本当の思いをおおよそ80%以上は隠していかねばいけないでしょうね。
80%の根拠→私がただ思うだけです。
そうしないと人間関係本来の好き嫌いや感情のままに人生を送ると社とんでもない事に。
まず争いになる、その争いは周りも巻きこむ、特に家庭の場合は家の中にそんな人物が一人でもいると大変な事になってしまいます。家族みんなに大きく影響すると言う事です。
鬱というのはそういう気持ちの切り替えができない場合に起こる精神的な障害ですね。
あるところでは自分に忠実になんて言うかと思うと人の気持ちを大切に!なんて
でも本質は自分勝手に生きたいのが人間であり、
そうなると社会生活が崩壊するから幼児の頃から教育されるわけですね。
教育とはある意味馬の調教と一緒です。ルールに基づいて行動できる人になるために調教されているのです。
その事に気づかないから鬱になるんですね。
お釈迦様はなんのために弟子たちに仏教を説いたのでしょうか、その事を一度真剣に考えてみる必要があるようです。
スピリチュアルは自分を鍛えて心を成長させるためには大切な事かもしれません。その中でも瞑想は僧の方々も日々修行のために取り入れたぐらいですから大切です。
問題は決して自分をスーパーマンかしないこと、人より上、もしくは選ばれた人と思わない事です。それを意識しだすとスピリチュアル的な話しを日常でも、また、ところ構わず喋りだすことになります。
本当に大切な事は人生の中で品格、人格、教養を高めることです。→そこに必要な共通の姿勢は謙虚さです。
恐らくこれは私の勝手な解釈ですがびんつる尊者様は人を救わんがためにスーパーマンになってしまったためにお釈迦様から破門されたのではないかと思います。
人は人であり決して人以上のものではありません。この気持ちを戒めとすることです。
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