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τ‑Random Acceleration Molecular Dynamics Simulations

本記事では,参考文献1で提案されたτ‑Random Acceleration Molecular Dynamics(以下,τ-RAMD)について解説します。参考文献1は(少なくても2024/06/20時点において)オープンアクセスのため,無料で内容を閲覧することができます。


背景

低分子創薬では標的タンパクに特異的に強く結合する化合物を設計することが必須条件ですが,効能や安全性の観点から「強く結合する」以外の性質も求められます。
「強く結合する」は具体的には(標準)結合自由エネルギー($${{\rm d}G}$$)で定量的に特徴づけられます。$${{\rm d}G}$$は結合解離定数($${K_{\rm d}}$$)と(1)式の関係があります。

$$
\begin{align*}
{\rm d}G&=RT * \ln\left(\frac{K_{\rm d}}{1{\rm M}}\right)\ {\rm [kcal/mol]}
\end{align*}\tag{1}
$$

ここで,$${R}$$は気体定数,$${T}$$は絶対温度です。
平衡状態において$${K_{\rm d}}$$は結合速度定数($${k_{\rm on}}$$),解離速度定数($${k_{\rm off}}$$)と(2)式の関係があります。

$$
\begin{align*}
K_{\rm d}\ [{\rm M}]&=\frac{k_{\rm off}\ [{\rm s}^{-1}]}{k_{\rm on}\ [{\rm s}^{-1}{\rm M}^{-1}]}
\end{align*}\tag{2}
$$

$${k_{\rm on}}$$,$${k_{\rm off}}$$はそれぞれ単位時間当たりのリガンドータンパク結合数,解離数を表します。つまり,$${{\rm d}G}$$は$${k_{\rm on}}$$と$${k_{\rm off}}$$の比率で決まるため,結合-解離が速かろうと遅かろうと比率が一緒であれば同一の値となります。一方,効能や安全性の観点からは速すぎても遅すぎても不都合があるため,$${k_{\rm on}}$$と$${k_{\rm off}}$$を調整するための化合物設計も重要になります。

以上の背景から,$${{\rm d}G}$$ほどではないですが,$${k_{\rm off}}$$(もしくはその逆数のresidence time($${\tau=k_{\rm off}^{-1}}$$))を予測するための様々な分子動力学(MD)シミュレーションの手法がこれまで提案されてきました。

τ予測の難しさ

MDシミュレーションによる$${\tau}$$の予測は$${{\rm d}G}$$より難しいです。これが$${{\rm d}G}$$予測手法より$${\tau}$$予測手法の研究が少ない一因でもあります。
$${\tau}$$予測が難しい理論的な背景は以下の通りです。

  • $${{\rm d}G}$$: 2つの状態(結合,解離)の自由エネルギー差のみを正確に予測することに特化すればよい。

  • $${\tau}$$: 結合-解離間の自由エネルギー経路を探索しなければならない。しかも$${\tau}$$予測に必要な自由エネルギー経路が1つとは限らない。

ざっくり言うと,$${{\rm d}G}$$が2点を求める計算だとすると,$${\tau}$$は(複数の)線を求める計算になります。そのため,予測値に同程度の定量性を求める場合は計算コストが$${\tau \gg {\rm d}G}$$となることが見込まれます。

τ-RAMDとは?

τ-RAMDは$${\tau}$$を予測するための手法の一つです。τ-RAMDの「τ」は正にresidence timeのことです。それ以前に提案されていたRAMDという手法を$${\tau}$$予測のために修正したのがτ-RAMDということになります。元々のRAMDでは連続的にランダム力を付与するのですが,τ-RAMDでは断続的にランダム力を付与するという違いがあります。
τ-RAMDでは以下のようなMD計算を実行します。

  1. 一定間隔,通常のMD計算を実行

  2. インターバル間のリガンドの移動を解析

    1. 解離する方向に移動していた場合 → そのままMD計算を再開

    2. それ以外の場合 → リガンドにランダム力を付与してMD計算を再開

  3. 完全に解離するまで1-2を繰り返す

ランダム力を付与することで本来の$${\tau}$$より圧倒的に短い時間(1-10nsオーダー)でタンパクからリガンドを解離させることができます。もちろんランダム力を付与したことで$${\tau}$$予測値の定量性は完全に失われていますが,参考文献1では少なくともN-terminal domain of HSP90αのリガンドシリーズに対する$${\tau}$$の相対比較に有効であったことが報告されています。ただし,相対比較に使用できるレベルの精度は複数計算によるアンサンブルによって達成されるため,実際の1リガンドあたりの計算コストは100ns以上となります。

$${\tau}$$を相対比較するためのMD計算手法はτ-RAMD以外にも提案されてきましたが,調整が必要なパラメータが少ない(「インターバル間隔」と「ランダム力の強さ」のみ)ことが実践的な観点でのτ-RAMDのメリットとして挙げられます。

τ-RAMDの注意点

リガンドがタンパクから解離する過程において,タンパク側の構造変化が重要となる場合があります。τ-RAMDが1-10nsオーダーで強制的にリガンドを解離させてしまうことを考えると,それ以上の長時間スケールで生じるタンパクの構造変化は得られた経路に含まれていないことになります。その結果,シミュレーションで得られた自由エネルギー経路は現実的には通らない経路であると期待され,相対比較の目的にも使用できるのか危ぶまれます。

そのような場合であっても,同一のタンパク構造変化を伴うリガンドシリーズであれば,幸運にも相対比較には影響しない可能性があるかもしれません。
一方,リガンドに応じて(長時間スケールの)異なるタンパク構造変化が伴う場合,むしろτ-RAMDが上手く機能しない方が自然です。

参考文献

  1. Daria B. Kokh et.al., J. Chem. Theory Comput. 2018, 14, 3859−3869

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