見出し画像

Wildernessを求めて

ニュージーランドに住んでいた時「Wilderness(ウィルダネス)」という雑誌を愛読していた。Wildernessはニュージーランドのハイキング専門雑誌だ。現地ではハイキングやトレッキングのことはTramping(トランピング)と呼ばれていたので、Wildernessはトランピング専門雑誌ということになる。愛読していたと言っても、当時働いていたバックパッカーにあったトランピング好きのオーナーが集めたWildernessのバックナンバーを読み漁っていたに過ぎない。僕はそのバックナンバーをくまなく読み、まだ見ぬニュージーランドの美しい景色を求めて新たなトレイルを探していた。

「Wilderness(原野)」という言葉はニュージーランドの自然にぴったりの表現だ。この国には手付かずの美しい自然がまだいたるところに残っている。いたるところにトレイルは存在するものの、有名なトレイルを除けば人があまり歩かない場所が多く存在した。トレイル上には山小屋(ハット)はあるが、管理人が常駐していない日本で言う避難小屋である。ニュージーランドのトレイルでは日本の山小屋のように、寝床や食事が用意されることはない(一部存在するが)。ニュージーランドでは自然の中を歩くには自ら衣食住を運び自己責任で歩くことが要求される(住に関しては小屋で寝ることもできるが寝袋は必須だ)。いたるところに「Leave No Trace(足跡を残すな)」という看板があり、ニュージーランド人の自然環境保護への意識の高さがうかがえた。僕はそんなニュージーランドにおける自然に対するスタンスが好きだった。

パンデミックをきっかけに僕の長い海外放浪は強制終了となり日本での生活を余儀なくされた。ありがたいことに僕はすぐ長野に住むきっかけを得ることができ、北アルプスを中心とした山々を歩いた。この頃の僕はまさに「原野」を求めていた。人のいない大自然の中へ浸ることを望んでいた。これは僕が長年好きな星野道夫の本や、若い頃に見た「Into the Wild」といった映画の影響が少なからずあることを認めざるを得ない。できるだけ人がいないところに行きたかった。

僕は年に数回一週間程の山旅に出た。北アルプスや大雪山をテントと食糧を担いで歩いた。その時僕はニュージーランドやタスマニアで見た原野を求めていたに違いない。確かに雲の平はニュージーランドを彷彿とさせる風景だったし、大雪山はまだ見ぬアラスカをイメージさせた。でも程なくして僕は日本では自分の求めているような「原野」がないことに気づく。

北アルプスや大雪山の風景は確かに素晴らしい。でもやはり「人」の存在を意識せざるを得なかった。北アルプスのテント場はいつも混んでいたし、山小屋に行けばご飯やビールを味わうことができた。もちろん僕はその恩恵に大いに預かっていたことは事実だし、山小屋やそこで働く人々により登山道が整備されているということは痛く実感した。そしてそういった人々のおかげで自分の長期縦走が実現できたのもまた事実である。(ただし大雪山縦走は避難小屋しかなく水もフィルターで濾して確保すると言うサバイバル感が味わえ興奮したが)

僕は日本もニュージーランドのように山小屋がただの避難小屋であってもいいと思っている。率直に言えば日本の山小屋はサービス過剰ではないかと思う。僕にとって「原野」というのは「人間が手をつけていない自然」という意味以上に、「生き物として自然に敬意を持って踏み入る場所」だと思っている。だから自ら必要なものを準備しそして持ち帰る。そういったことができる人だけが自己責任で自然へ入るべきではないかと思う。

ただ最近日本の山は人があってこそ成り立っているのだなということを実感している。日本では山小屋という文化も日本の山の一部であるということがわかってきた。元来日本人は自然と共に生きてきた民族である。山小屋という文化も日本人の自然へ対する接し方の延長線で生まれたのだろう。歴史の浅い、政府がトレイルを管理しているようなニュージーランドと比べるのは野暮な話かもしれない。現に、山や山小屋での出会いを楽しんでいる自分がいるのも事実だ。

日本にはWilderness(原野)は存在しない。でもこの国には人と自然が織りなす美しい風景と文化がある。ほんの少しづつそういうものを楽しめるようになってきた気がする。ただこの国の自然を守る上で、自然へ入る姿勢も変わっていく必要があるのではないだろうか。

僕が圧倒されたBlue LakeからWaiau Passへと続くトレイルの風景(Nelson Lakes National Park, New Zealand)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?