TheBazaarExpress77,フランス料理という大樹の下で~サリー・ワイル、井上旭、平松宏之、根岸規男、古賀淳二、

   その日、東京・京橋二丁目のビルの一階に新装開店した高い天井を持つレストランには、昼過ぎから夜中まで、笑い声や昔話に涙する人々の姿がたえなかった。二〇〇四年一一月二六日。ワンブロック離れた京橋三丁目で約二〇年間、日本の「グランメゾン(最高級レストラン)」の名をほしいままにした「シェ・イノ」のオーナーシェフ・井上旭の弟子たちが、師の新しい門出を祝うために駆けつけたパーティーだった。全国からやってきた弟子たちは約一二〇名。中には故郷に帰って独自の店を持つものもいれば、志半ばに挫折して、今は違う道を歩むものもいる。井上は弟子たちがどんな状態にあろうとも声をかけ、旅費がないという者にはそれを負担してまで「顔をみせに来い」と呼びかけた。

 一九七二年、スイス、ベルギー、そしてフランスでの六年間の修業を終えた井上は、帰国後すぐに帝国ホテルの調理場に立った。そこにはフランスからやってきたシェフが三人いた。ところがこの三人は、井上が「トロワグロ」でソースの神様と言われたジャン・トロワグロの薫陶を受け、「マキシム」でシェフ・ソーシエ(ソース係)として働いてきたと知るととたんに表情を曇らせた。

《自分よりはるかにすごいキャリアを持っているじゃないか---》

 彼らより井上の方がフレンチの神髄を知る者だったのだ。ところが労働組合が強かった当時の帝国ホテルにあっては、新参者はいきなり調理場のメインには立てない。「明日からアントルメ(温野菜担当)をやってくれ」。上司にそう言われた時、井上は即座に「辞めます」と踵を返した。入社四日後のことだった。

 その日から八四年に「シェ・イノ」をオープンするまで約一二年、井上は都内の「シャドネ」、博多の「花の木」、再び都内に戻って「レカン」「ドゥ・ロアンヌ」といったレストランで腕を振るった。だからこの日京橋の新店に集まったのは、そんな雇われシェフ時代からの弟子たちだった。

「井上さんはあの時代から人を育てる料理ができる人でしたから」

 博多の老舗フレンチ「花の木」の支配人・濱宏幸が言う。

「当時フランス帰りのシェフなんて何人もいませんでした。その一人が博多にきてくださって、何一つ隠すことなく全て我々に教えてくれたんです。だから弟子が育ったし、弟子も井上さんの下から離れないんです」

 濱もまた、新店の開店の祝いに博多からかけつけた一人だ。立食にもかかわらず昼に始まって深夜まで続いたそのパーティーは、まさにフランスに学び日本に根付いたフランス料理界の一本の大樹の雄姿そのものだった。

 だがこの時、井上は若き日に経験したあのパーティーのことを思い出していただろうか。実はこの日を遡ること約四〇年前、後に大きく枝葉を広げることになる日本の西洋料理界の船出ともいえるパーティーが開かれ、若き日の井上もそこに出席していた。

 時は一九六七年一二月某日。所はスイス・ベルン。出席したのはスイス修業二年目を迎えていた井上の他に、後、京王プラザホテルの料理長となる緑川廣親、帝国ホテルのシェフパティシエ(製菓長)となる加藤信、第一ホテルの総料理長となる快勝院孝士等々、約三~四〇名の日本人の若き料理人たちだった。残る写真を見ると、皆二〇代後半の若々しい肉体を細身のスーツに包み、初々しい表情を見せている。

 パーティの主役は、スイス人サリー・ワイル。この日六〇歳の誕生日を日本の若者たちに祝われたこの男こそ、井上たちが開花させた日本の西洋料理界の一つのルーツと言っていい。なぜ日本の西洋料理のルーツがフランス人でなくスイス人なのか。なぜ井上たちはスイスに集ったのか。サリー・ワイルとは何者なのか。それらの謎を繙くことで、これまで語られて来なかった日本の西洋料理界の秘話が見えてくる。

        ※

「私は大阪万博の時は日本にいませんでした。昔ホテルニューグランドにいたシェフのお世話になってスイスで料理修業を始めたんです。名前をなんといったかな。皆スイス・パパと呼んでいたんだけどな」

 そう言って私に初めてサリー・ワイルの存在をほのめかしてくれたのは、ホテル・オークラの総料理長・根岸規雄だった。この時私は日本の西洋料理史を描くために、一つの仮説を立てて取材を始めたところだった。

---大阪万博こそ、日本の西洋料理界の一大エポックだったのではないか。

 一九七〇年に開かれ六〇〇〇万人が訪れた大阪万博では、フランス館ではフランス料理が、イタリア館ではイタリア料理が振る舞われた。それが、それまで「洋食」でしかなかった日本の西洋料理が初めて国別に色分けされた瞬間だったというのが料理界の通説だ。そのフランス館に、後の西洋料理界を牽引する主人公はいなかったのか。フランス館の厨房で働いた経験がある人を訪ねれば、そこから何か手がかりがあるのではないか。

 そう思って私は、たまたまあう機会を得た根岸にそれを訊ねた。ところが根岸はこの時代に司厨士協会から派遣されてスイスで修業していたという。それを世話したスイス人とはいったい誰なのか。私は事務所に戻り急いでホテルニューグランドのホームページを開けてみた。するとそこには、料理界にとっては大阪万博よりもはるかに大きな意味を持つ、一人のスイス人の略歴が書かれていた。

「一九二七年(昭和二年)ホテルニューグランドを開業するにあたり、料理長としてパリのホテルでコック長をしていたサリー・ワイルを採用した。ワイルは本格フランス料理の味はもちろんのこと、当時堅苦しいばかりだったホテルのレストランにパリの下町風の自由な雰囲気を取り入れ、コース料理以外にアラカルトを用意するなど、お客様本位のサービスを実践してみせた」「ワイルは指導者としても秀でた人物であった。『自分は魚料理、肉料理しかできないというのは恥ずべきことだ』といって、コックをローテーション制で持ち場をまわし、自分の知識も惜しみなく教授した。その全能的教育の甲斐あって、弟子たちは各地の主要ホテルで指導者の地位についている」「弟子たちからは『スイス・パパ』と呼ばれ親しまれた」(一部筆者構成)

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