TheBazaarExpress51、創業400年の老舗メーカーが踏み切った「攻め」の経営~甲州印伝

   店頭で青い蜻蛉柄の信玄袋を求めると、番頭とおぼしき年配の男性はこう言った。

「一〇年たってからこの商品の感想をお聞かせ下さい。革がクタクタになってから印伝の本当の良さが出ますから」

 甲府で一三代続く「甲州印伝」。現存する唯一の製造メーカーである「印伝屋」上原勇七家は、創業以降約四〇〇年間、鹿革と漆、そして「ふすべ」に象徴される日本古来の革の染色技法を守り続けてきた。

 何故生き長らえたのか。どこにその秘密があるのか。冒頭の言葉をたぐりながら、その理由をといてみたい。

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 上原家では、代々家長になると戸籍も変えて「勇七」を継ぐ。長い歴史の途中には、家長に娘婿を据えることもあったが、子どもが分家する時は「見たこと聞いたこと他言ならず」と血判状を書き残すしきたりがある。

 ところがそこまでして口伝で残してきた技法を、一三代勇七は、工房をショールーム化して「公開」することにした。時に昭和五四年(一九七九年)のことだった。

「この当時ショックなことがあったからと聞いています」

 今は同社会長となった一三代勇七の後をうけて、いづれ一四代を襲名することになる同社社長、上原重樹は言う。

「私どもはけっして大きなメーカーではありませんが、地元の人には信頼していただいている。観光地等の小売りの方との信頼も厚いと信じていました。ところが昭和五〇年のころになっても、「印鑑を売って下さい」というお客様が見えたそうです。これには一三代はショックを受けて、まだまだお客様に認知をいただいていない、このままではいけないと思うようになったのです」

 もともと印伝は、幕府に献上された装飾革がインド産で「印度伝来」に由来する。上原家では、戦国時代には鹿革で甲冑を作り、江戸期になってから「印伝」を名のって町人文化を彩る煙草入れや革袢纏等に転じ、昭和に入ってからは和装に欠かせない巾着等の袋ものを主につくってきた。

 だが高度成長期を境に、時代は音をたてて変わった。昭和三〇年代まで残っていた和装の人が激減し、街行く人はすっかり洋装主流になった。女性の社会進出も活発で、ビジネス用のバッグの需要も増えた。何より大きかったのは、専業農家の激減により、農閑期に印伝を全国に売り歩いた行商人がいなくなったことだ。

 一三代勇七は昭和三〇年、父の急逝によって二二歳で家長となった。以降二〇年間は古い商法を守ってきたが、この時、それまでの「待ち」の商法を改革し「攻め」を覚悟する。

 昭和五二年、初めて顧客感謝デーを設けて特売を開始。五四年、週刊誌に広告掲載。五六年、都内青山に第一号のアンテナショップをオープン。五八年、バッグ製造を開始し、初のブランド「Carray」を発表する。

 同時に職人や店員の教育活動にも乗り出した。全社的に計数管理を徹底させ、原価意識を持たせた。職人も早朝会議に参加させ、業績連動型の賞与も出し、努力が数字に現れる体制づくりが図られた。

 殊に青山への出店は、資本金四〇〇〇万円の同社が二億五〇〇〇万円をかけた「賭け」だった。けれどこのプロジェクトも数年で投資額を回収する成果をあげ、印伝は古来から評価が高かった実用性と耐久性だけでなく、ファッション性という武器も得た。四〇〇年前に生まれた独特の革製法が今も生き長らえているのは、こんな「転機」と「決断」の連続を乗り越えてきたからだ。

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 けれど変わり続けることと同時に、変わらないものもある。それは印伝の製法と精神だ。

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