Ⅲ 野生演劇

たとえば、強姦された娘が涙を流しながら登場するとしよう。この場合、彼女の演技が十分に感動的なものであれば、わたしたちは、彼女が犠牲者であり不運な人間であるという暗に語られている結論を、自動的に受け入れてしまう。しかし、かりに道化が彼女の後からついて出て来て、彼女のしぐさを真似、その才能によってうまくわたしたちを笑わせようとする。道化による愚奔はわたしたちの最初の反応を打ち砕くのだ。そうなれば、観客の共感はどこへむかうだろうか。彼女の性格の真実も、彼女の状況の本当らしさも、道化によって改めて問われ、同時にわたしたち自身の安易な感傷性もあばかれるのである。もしもこういうことが徹底的に行われたら、やがてわたしたちは、みずからが抱いている正邪についての見方が頼りないということに、突如として目を開かれるであろう。こういうことはすべて厳密な目的意識から発している。ある状況に含まれるさまざまな要素を観客に吟味させることによって、演劇は、観客にみずからが暮している社会をより正しく理解させ、その社会をどうすれば変革できるか学ばせるという目的にかなうものになるのだと、ブレヒトは信じていた。

ピーター・ブルック『なにもない空間』晶文社、1971

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