Ⅰ 退廃演劇

芝居を作るということはたしかに気が遠くなるくらいむずかしいことだ。演劇という表現形式はあらゆる形式の中でいちばんやっかいなものなのだ――少なくとも本気でやるつもりならば。それは非常な芸術だ。失敗や浪費は許されない。小説なら、何ページか、あるいは何章か、とばして読んでしまうような読者にかかっても、結構もちこたえる。芝居の観客は一瞬のうちに興味から退屈へと急転しまいがちで、こういう観客の気持は一度取り逃がしたら二度と取り戻せるものではない。二時間というのは短くもあり永遠の長さでもある。公衆の時間を二時間使う、これはあだやおろそかにはできぬ仕事だ。ところがこの仕事はすさまじいほどかずかずの制約にしばられていて、結局行きあたりばったりの仕事ぶりになってしまうことが多い。呪われた死の影が支配する現代の真空地帯では、演劇という芸のもろもろを正しく学ことのできる場所は少ないのだから。

ひとつの演出が長続きできる限度はせいぜい五年くらいだろう、というのがわたしたちの結論である。たんに髪型や衣装や化粧などが古くさくなるというだけではない。上演を支えるさまざまな要素――ある感情を表わすちょっとした動作、身ぶりとかしぐさとか声の調子とか――がすべて、目に見えぬ株式市場でたえまなく流動しているのだ。生活は刻々動きつつあり、俳優にも観客にももろもろの影響が降りそそぎ、ほかの芝居、ほかの芸術、映画、テレビ、時事問題が相加わって、絶えず歴史を書きかえ、日常の真実を補正する。ファッションの先端をゆく店で誰かがテーブルを叩いて、叫ぶ――「今度の流行は絶対にブーツだ!」 これは実存的な事実だ。ファッションなどという矮小なものにはわれ関せず、と思い込んでいる演劇は、きっと生気を失ってしぼんでしまうだろう。演劇においては、ひとたび生まれたかたちはすべて死すべき運命を持つ。すべてのかたちはあらたな受胎を繰返さなければならない。そしてその新しい受胎は、それをとりまくあらゆる影響の刻印を帯びているだろう。この意味で、演劇とは相対性そのものだ。

ピーター・ブルック『なにもない空間』晶文社、1971

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