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見ないはずのものを見る観光

ストーリー性や文脈が観光にくっきりとした輪郭を与える

近年、着地型観光が注目を浴びることが増えてきました。都会の大手旅行会社が地域へ観光客を送客(発地型観光)するのではなく、地域の事業者や住民が主導権をもち(しばしばコンサルタントの力を借りながらも)、地域主導で各地から観光客を誘客するタイプの観光事業です。

着地型観光では「地域ならではのストーリー性」や「地域の文脈」を大事にしますが、それらは、目に見えてどこかにぽっかりと浮かんでいるものではありません。

前回のnoteで書いた西谷雷佐さんのいう「地域編集力」(=地域のあるのもを活かし、因数分解して掛け合わせ、編み、新たな価値を生み出すこと)によって、ストーリー性や文脈が立ち上がってきます。地域の観光にはっきりとした輪郭が与えられます。

村人全員が参加するホテル?

着地型観光の実例のなかで最近気になっているのが、NIPPONIAがプロデュースする山梨県北都留郡小菅村の「源流の村」です。小菅村を「700人の村がひとつのホテルに」という文脈でとらえ返し、山里暮らしの豊かさを見せる・体験してもらう、という取り組みです。

サイトには「村人紹介」というページがあります。「村と共にあるこのホテルは、たくさんの村人に支えられています。ホテルの運営に関わる村民の皆さんをご紹介いたします」として様々な職業の村人が紹介されています。生き生きした表情の村の人々に会いに行きたくなるような紹介の仕方です。

でも、ここで小さな違和感も覚えます。ここに紹介されていない村人はどんな人なんだろう?この取り組みにそっぽを向いている村の人もいるのでは?

小菅村を訪問したくてうずうずしながら、まだ行けていません。ですので、上記はあくまでも勝手な想像で書いています。2021年中には是非行きたいと思っています。

(ここで思い出すのは、町田康の『告白』という小説とその主人公で大量殺人事件を起こした熊太郎なんですが、脱線しすぎるのでやめておきます。)

ストーリーから弾き飛ばされたものを見る

前回のnoteに「観光とは何かを見せる(見る)ことであり、それは裏返せば何かを見せない(見ない)ことだ」と書きました。

編集によって立ち上がってくる地域のストーリー性や文脈という「枠組み」のなかにあるもの(風景、食べ物、体験など)が「地域が見せるもの」であり「観光客が見るもの」です。

観光は事業です。観光商品づくりの編集プロセスで、地域資源という原材料のなかには、ストーリーの枠におさまらないもの、はみ出してしまうものが出てきて当然です。逆に、全部を枠に入れようとすると、ストーリーがごちゃごちゃしてしまい、文脈がぼやけて濁ってしまうでしょう。

その枠の外にはみ出してしまう風景や人は、観光客に見せる予定ではないもの、出会わないはずの人たちです。

しかし、観光客には、はみ出してしまったものに出会う自由があります。観光客はどのようなものにもまなざしを向けることができるはずなのです。このことを観光客自身が忘れない、これもまた重要なのでは、と思うのです。

見るはずのないものを見たときに

かつてマスツーリズム全盛期に、有名観光地の目抜き通りから一本はずれた路地で、わけのわからない妖しい店を見つけたときの高揚感や、愛想なく目つきのよくない地元の人とすれ違ったときの「覗き見してしまった感」のようなもの。そんな感覚を味わったことはないですか?

あえて「見せられていないもの」にアンテナを張り巡らして、マスツーリズムの裏をかいてみたい、という痛快な気分を求めたことはないですか?

地域のストーリー性や文脈を大事にする着地型観光は、マスツーリズムへの反動から生まれたともいえます。マスツーリズムが弾き飛ばしたものを掬い上げるような観光だともいえるかもしれません。

しかし、ストーリーのある「クールな田舎感」や「街の普段着っぽいおしゃれ感」から、さらに弾き飛ばされてしまったものたちにアンテナを張るのは、マスツーリズムの枠の外にあったものを見るよりも、もっと注意深さが必要になるのかもしれません。

いや、注意深く裏をかくことが重要だ、というわけではないのです。

ただ、地域の側が「見せるつもりのなかったもの」を観光客がたまたま見てしまったときに、がっかりするだけでなく、少し立ち止まって、あれ?と向き合ってみる、その感情の先に分け入ってみることによって、世界に対する感度や読解力が磨かれていくのでは?という気がしています。これは観光客を育てる、という意味での観光教育の話に繋がってくるはずなのですが、まだ言葉になっていません。いつか書いてみたいと思っています。

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