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クローブの重厚さ

はじめて彼女がお店にきたときのことを覚えている。冬にはまだ早く、テラスには犬の散歩をする途中に立ち寄る常連さんたちがいて、わたしは彼ら(犬たちも含めて)とおしゃべりしながら、コーヒーを淹れていた。ざわざわする店内で、彼女の周りだけ、時が止まったように静かだった。すっと伸びた背筋、品のある装い。ほとんど白髪に近い髪はゆるくしかし上品にまとめ上げられていた。席につくと手袋をぬいで、赤ワインを注文した。

ビーフシチューを煮た日で、店内にはお肉の食欲をそそる香りとクローブの甘い香りが立ち込めていた。ワインを飲む彼女の前にそっとそれを置き、追加のワインをついだ。

彼女はおいしいものを知っている佇まいをしていて、食べているあいだもとても静かだった。味付けに気を悪くしているのではないかと危惧しつつも、またいつものお客さまたちとのおしゃべりに戻った。

シチューをたいらげワインも飲み干すと、彼女は静かに席をたって、わたしのところにつかつかと歩み寄ると、「ほんとうに、おいしいビーフシチューでした。わたし、普段こんなことは言わないの。だけど久々に、心が洗われるようなたべものをいただきました。ありがとう。」と、手を差し伸べて握手してくれたのだった。

店をするということは孤独なことであるが、その孤独は、こういう瞬間の積み重ねに支えられている。気の利いたことも言えないわたしに微笑んで店を去った彼女は、それから毎週寄ってくれるようになった。

クローブは”甘い香り”とひと括りにされることが多いが、複雑さに富んだ重厚な香りは、年を経てこそ醸し出される彼女の雰囲気に似て、お料理、とくに牛肉や赤ワインを使ったそれに、深いコクを与えてくれる。お店で煮込むなら迷わず大ぶりの塊肉で、クローブは少しだけ強めに。おうちで作るなら、クローブはほんの少々、野菜をたっぷり入れて、煮崩れるようにわざとぐつぐつ煮込む。

どこで作るか、だれと食べるかで、料理も、スパイスの使い方も、無限に形を変えていく。決まりなんて、はなからないのだ。愛さえ伝われば、それでいいと思っている。



「野菜たっぷりのビーフシチュー」

材料:(5~6人分)
牛肉 600g
クローブパウダー 2つまみ
塩 小さじ2
にんにく 1片
玉ねぎ 2個
セロリ 1/2本
マッシュルーム 8個
人参 4本
ホールトマト 1缶
オリーブオイル 大さじ2
赤ワイン 750cc
ローリエ 1枚
バター 30g

生クリーム、パセリ 適量

  1. 牛肉は一口大に切り、クローブと塩小さじ1をまぶす。にんにく、玉ねぎ、セロリ、マッシュルームは薄切りに、人参は一口大に切る。ホールトマトはミキサーなどでピューレ状にする。

  2. 鍋にオリーブオイルを熱し、にんにく、玉ねぎ、セロリ、塩小さじ1/2を入れて炒める。しんなりしたら牛肉を加えて炒め、ホールトマト、赤ワイン、ローリエを加えて中弱火で30分程度煮込む。途中アクが気になるようなら取り除く。

  3. マッシュルーム、人参、残りの塩を加え、さらに30分程度、中火で煮込む。焦げないように様子を見てかき混ぜる。

  4. 人参が柔らかくなったらバターを入れて混ぜ、器に盛り、生クリームをかけ、パセリを散らす。

ポイント:
牛肉の下味にクローブを使い、甘みを引き出し臭みをカバーする。煮込みあがりから一度冷まして温めると味が馴染みさらにおいしい。

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