Seen

インスタグラムで見かけた投稿。
拙訳つけてみた。

ノンファンにとって厄介なのは、「見えない」ということです。

「家族という単位」が寄り集まってできた混合体、これは世界レベルで社会であると定義されているらしいのですが、この大きなモノに、子どものいないわたしたちは属していません。

わたしたちが住むのは家族中心の世界で、ノンファンはいわゆる「ふつう」に属さないため、のけ者にされたり、異常だと思われたり、はみ出し者と見なされたりします。

幸い、ノンファンにかかわる偏見は緩まりつつありますが。
まだまだ消えてはいません。

お互いを理解しあえるような会話を共有するのに、ふつうと定義するコトバ、このコトバを使うと、それ以外のものを表現するのはむずかしくなるからと、ある意味言えるでしょう。

これはノンファンが見えない存在になることにつながります。それはコトバが理解、認識、生活とつながっているから。コトバが不足している場所で、お互いを理解し合う術が足りない、じゅうぶんでない。だからノンファンが目に見えないことが増えていくのです。

また、ノンファンは規範的な社会の枠にはまるわけではありませんし、ノンファンを定義するコトバがないので、なおいっそう見えない存在になっていきます。

BBQやディナーパーティでは、例外なく子どもや孫の話になっていくものですが、そうなるとノンファンは蚊帳の外です。⠀
見えないということは、ノンファンの存在をさらに遠いものにし、排除や権利はく奪が繰り返されます。一生続くかもしれません。

ノンファンを見えない存在としない社会をつくっていけば、排除のバリアは崩れていくでしょう。

見えるコトで、見えない存在から解き放たれるのです。

・・・とまぁ、こんな感じですが。
むずかしいですよね。「職場の人にぜったい知られたくないから」とひた隠しにしているノンファンの話を聞いたことがありますけど。(今でも秘密なんでしょうか)

自分はというと、誰彼なしにとは言いませんが、知人友人には話していますよ。隠す必要がある?って感じですよ。

ノンファンが「見えない存在」なのは、なんだかよくわからない、実体がつかめないからでしょうか。「見える存在」のひとたちからすると、「こんな感じかな」「あんな感じかな」「でもよくわからないな」。
自分の持っている情報とか、あるいは固定観念?の範疇で、ノンファンをとらえている?

「見える存在」のひとたちの考えだってわかりませんよね。お互い様です。

「ノンファンを見えない存在としない社会をつくっていけば、排除のバリアは崩れていくでしょう。見えるコトで、見えない存在から解き放たれるのです」

「見えない存在」から「見える存在」へ。
叩かれたくない、バッシングなんてまっぴら。STAYHOMEのほうがまし。

でも「見える存在」へと誘う活動をつづけているひとたちを目にすると、なにかやれないかなぁと思うんですよね。

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