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あいつがいたから生かされた。

高校3年生の時、同じクラスになって初めて仲良くなったM君。よく話すようになったのは部活を引退して学園祭が終わった秋ごろだったと思います。私が野球部で彼が登山部。3年の担任の先生が登山部の顧問で、この時先生は32歳ぐらいだったと思います。今、思えば若い先生です。よく話すようになった秋のある日、M君の自宅にお邪魔することになりました。会話に内容は女子の話。M君には好きな子がいるようで、自慢じゃないのですが私のニックネームは、高校の頃は自称、「恋のキューピット」です。37年も昔のことなので固定電話です。すぐ彼女の家にM宅から電話しました。私と彼女は仲がよかったのでM宅へ遊びにくるように誘ってみました。時間としては自転車で15分の距離だったのでごり押しで彼女は来てくれました。

もちろんMは緊張しっぱなしです。1時間の3人での会話は普通の高校3年生らしい話題です。でも、M君の気持ちは気付かれたと思います。腹減った!と無理やり彼女に目玉焼きを作らせている間に作戦を考え、目玉焼きを「うまい、うまい!」とほめまくり、私が彼女を変える方向が一緒だったので自宅まで送りました。自宅までの15分に、「分かったと思うけど・・・」「・・・今度デートしてあげてくれん?」と積極的にお願いしました。彼女も嫌な顔はせず、明るくうなずいてくれました。私は心の中で「よかった~。」と声を上げました。その後、すぐにM君にデートOKだったことを伝え、次の日も、また次の日も、M君の家で受験勉強もせずM君人生初デートの作戦を練りました。

M君は計画通りに1度一人で下見をしたそうです。見る予定の映画まで下見したそうです。その話は、後日M君のお母さんに聞きました。デートは大成功。そして、告白まで後押しして恋のキューピット役は終了しました。私とM君の仲は、どんどん短期間で深まりました。そんなある日、高校の3階の教室のベランダに出て、もう年末近くの冬で寒かったのですが会話をしました。「最近、無理に運動したら、足が痛くなった。」「近所の病院に行ったら大学病院紹介された。」「片足を切断するかも。」って普通のトーンで会話してきた。18歳の自分には冗談にしか聞こえず、「そんな馬鹿な!?」みたいな話をしてたと思います。今思えば自分はどんな顔をしてM君と話しをしていたのだろう?、経験不足で人の気持ちも全く分からない子供の悪気の無い18歳の顔をしてたのでしょうか?無関心な表情で対応してたのかもしれません。冗談だと思ったし、他人事だと思っていたかもしれません。結局、その数日後、突然彼は学校に来なくなりました。大学病院に入院しました。病名は「骨肉腫」でした。担任の先生がクラスメートを集め、病気とM君のことを教室で説明してくれたのを覚えています。足を切断する話も聞きました。でも、その時も冗談だろうって感情がありました。

私は動揺しました。大学病院は遠方にあり、高校生には行く手段がなかなか難しい場所でした。時は過ぎ、大学受験も終わり、M君は航空自衛隊にあこがれ航空自衛隊に合格しました。が、病気のために彼は入隊を辞退しました。M君には2年上にお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんも航空自衛隊に行っていました。当時の2年前に、癌で亡くなられたお父さん、も自衛隊でした。亡くなられた父親、仲の良い姉の影響もあったのでしょう。受験の話の時は自衛隊のことばかりでした。M君家族にとって、どれだけ辛かったのでしょうか?

M君は片足を切断し、癌の転移も見られないので1年経って退院しました。私は浪人生活だったのでM君の家と私の家で会えるようになりました。焼き鳥も食べに行きました。まだお酒は飲んではダメな年でしたけど、本当に良かったと、強い奴~!と昔みたいにと2人して将来に期待しました。夢も語りました。でも、ダメでした。すぐ、再入院。本当にこれからという時に、癌が転移してしまいました。それからは早かったです。本人の姿がどんどん変わっていきました。再入院からまた1年の闘病生活でした。最後は見れ無くなるぐらいに・・・・・本人は頑張りました。クリスマスの日、食べることが一切できなくなっていたのに、持って行ったクリスマスケーキを無理して笑顔で2口も食べてくれました。もう目も見えなくなっていて、痛みも我慢して、見てて辛かったです。その後、1日おきに危篤状態になりました。M君は限界だったのでしょう。1回目の危篤の時は仲間たちと駆け付け、手を摩って声をかけて、目は明かないけども持ち直しました。2度目は面会謝絶で家族だけになってしまい、その次の日に亡くなった連絡を担任の先生からいただきました。

このM君のことは忘れたことがありません。どんなに辛いことも、悲しいことがあっても、自分はあいつに比べたら大した事はありません。大学も行けて、就職して、結婚して、3人も子供ができて、今でも仲間と野球やってて、あいつができなかったこと全部やれたから。でも、今、死なずに生きていてくれたなら、相談したり、相談されたり、酒飲んで騒いだり、もしかしたら一緒に起業したり。一番の味方だったかもしれません。あいつがいたから、頑張れて、我慢もして、笑って、泣いて、生きていけたのかもしれません。

37年経ってもM君の家に行きます。今でも担任の先生も来てくれます。一緒に見舞いに行っていた仲間たちも来てくれます。でも、彼が発病した時、一番近くにいた友達は私だったと思います。学校のベランダで足が痛い話や病気の話を本人から聞いたのも私だけだったようです。それなのに何もしてあげられなかった後悔は今でもあります。絶対的に彼は私の唯一の親友だったようです。

先日の10月1日に、見ることのできなかったM君の自衛隊姿を37年ごしに似顔絵イラストにして、制服を着せました。その絵をフィギアにして仏壇に飾ってもらえました。お母さんを泣かせてしまいましたが、喜んでもらえて良かったです。また、M君ちには遊びに行きます。

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