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クルドのジョージ・フロイド

先日渋谷警察署に対するクルド人のデモについて書きました。警察批判・クルド人への同情故ではなく、クルド人は一部ネトウヨが騒ぐように「反日」ではないことを知って頂きたく筆を執りました。


その後職質されたクルド人が無免許だったとも言われ始め、やはり警察が正しかった論が優勢になってきました。クルド人はその境遇と政治的性質故に左右両翼の政治運動に利用されがちです。今回の一件もSNSへの動画投稿からデモまで警察批判のために準備されたものかと見えなくもありません。デモについてもいつもの反トルコデモと異なり日本人中心であった観は否めませんでした。アメリカのジョージ・フロイド氏の一件と同列に論じるのには難しいでしょう。

一方クルド人弾圧問題の一丁目一番地トルコではフロイド氏の事件を超える悲劇が起きました。アンカラ在住のクルド人青年がクルド語の音楽を聞いていただけでトルコ人に襲われ命を落としました。

彼の従兄弟もまた過去同種のヘイトクライムによって殺害されており、それが一層クルド人の間で悲しみと怒りを引き立てました。

普段クルド人弾圧の指揮を執る内務相スレイマン・ソイルは遺族へお悔やみを述べたようです。

政府は被害者に寄り添う姿勢を見せる一方で、今回の一件はクルド語の音楽によるものではなく金曜礼拝時に大きな音楽を流していたことによるトラブルと問題をすり替えようとしています。

クルド系政党人民民主党(HDP)のイスタンブール支部が抗議集会を開催しました。

参加者が「私はクルド人。母語を理由に殺された」と横断幕を掲げていたのが印象的でした。

HDP議員はバリシュ・チャカンはクルド人民の息子だとクルド語で投稿しました。

新生トルコ建国後、指導者ケマル・アタテュルクはクルド人の助力によりギリシャとの戦争に勝利したことから当初は演説の中で「クルディスタン」という文言を入れる等融和的姿勢をとっていました。しかし1925年のクルド人反乱シェイフ・サイードの乱以降、クルド人との協力姿勢を180度転換し民族否定路線を開始しました。しかしクルド人の反乱がなくともクルド人差別政策は早晩始まっていたでしょう。スマン帝国崩壊期にアルメニア人、ギリシャ人、アッシリア人大虐殺といった人類史的犯罪によってトルコ国家が確立したことを鑑みると、少数民族否定は近代トルコ民族の宿痾と言えます。クルド民族否定路線を転換した90年代以降も綿々とクルド人への憎悪は続き今回の事件につながりました。

クルド問題に関するニュースが世界中で話題になると、トルコ人は勿論、日本人の親トルコ派の中にもトルコに民族差別はないと喚き散らす人々が出てきます。ジョージ・フロイド氏の一件で人種、民族差別反対の機運が世界中で高まる中で、アメリカにおける黒人差別より深刻とも言えるトルコのクルド人差別について考えてもらいたいと思います。

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