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2.「またね」と「いつか」は、ないかもしれない。

実はこの1週間で、すでに2名の訃報にふれていた。
一名は仙台の信仰の友、A兄。
4年前に大腸ガン。オストメイトにしつつ社会復帰、しかし転移もあり、退職して闘病に専念。12月末には自宅療養に切り替えておられた。実は1/12(日)には仙台に見舞いに行く予定だった。
実際、1/10(金)朝の通勤電車内にて父の報にふれる直前に、えきねっとから東北新幹線往復を予約したばかりだった。
お見舞いには間に合わなかった。さみしかった。でも明確に信仰告白しておられ、いつかまた天の御国で会える希望も持っていた。

もう一名は、東京の信仰の友U姉の母上。
闘病していた様子。年末に病床洗礼を受けた、と。
この世での別れは寂しくとも、いずれ天の御国で再び会える希望がある、と。

私はこのお二方の訃報に触れて、悲しみを抱くのはもちろんのこと、ただこの悲しみに加えて、先に召された信仰者とは天の御国で会えることを想っていた。
私も「父母に福音を語ろう、まだ間に合う」と、ある種の希望も得ていた。

しかしその翌朝、父が逝った。

間に合わなかった。

福音を語ることができなかった。

「またね」と「いつか」は二度と来ないかもしれない。

一期一会のつもりで、福音を語り魂の救いを得ることは、先に救われたキリスト者にとって大切な主から帯びているミッション(使命)だ。

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