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アップデートのための振り返り:その1、叡智の本質について

叡智の本質

御大層なタイトルだが、自分のための振り返りなのでご容赦を。

月に一度、金鱗の鰓を取り置く術というワークショップに参加していて、四年目に入った。

日頃、さまざまな人々の言動を見聞きして、「わたしはこれでいいのかな」と不安になることもある。
月に一度の金鱗WSに出ると、「これでいいんだ」と思える。

わたしが時おり不安になるのは、セラピーやウェルビーイングの業界を眺める時だ。古代からの叡智に現代のサイエンスを融合させ、エビデンスをとったうえで啓蒙していくような方法が主流になっていくのを眺める。

(わたしは主流とズレてるけど、これいいのかな、これでいいんだ)という自己内問答がたまに起こるのだ。

より良きものになっていく。

主流はきっと、それでいいのだと思う。


けれど、叡智の本質は「わたし自身が眼を開くこと」であって、「より良きものを受け取ること」ではない。
そこを履き違えると、瞑想をしようが山ほどセラピーを受けようが、ただより良きものを受け取ろうと口を開けて待っているだけのひな鳥に過ぎない。

ひな鳥ごっこで愛されて喜んだり、拗ねて傷つく時代は、終わりだ。

昨日の金鱗WSは、そのような能動性と受動性のお話だったと、わたしは受け取った。


わたしは、苦しみというものを、生きるプロセスに変える方法を知った。
実践できるようになった。

その方法は、ブッダが般若心経で語ったことと、ほぼ同じだ。

心や体、環境というスクリーンに映る私。これが私と思い込んでいる私。
スクリーンとの同化を引き剥がし、観察者である「わたし」に気づくこと。

逆に言えば、スクリーンの中にはどこにも「わたし」はいないことに気づくことだ。
徹底した「無自性(むじしょう)」が、般若心経では説かれている。

しかし、それだけですむのなら、現代を救いに、今まさに釈迦が生きているはずなのだ。肉体を持って。

釈迦から500年、さらにキリストから2000年を経て、苦しみをプロセスに変える方法は、般若心経から現代版に多少アップデートする必要がある。

この2500年で、わたしたちははるかに物質的になり、物質に価値を置くようになった。からめとられ、丸め込まれ、次々に「より良きもの」を受け取らなければいけないような気分にさえなる。

苦しみをプロセスに変える方法は、ただそこから距離を置く生き方ではなく、物質価値の中に、それをひとつの他者自我としてどこまでも入っていくことだ。

これは抽象的な言い方で、具体的な物質価値とは、人によってお金、健康な体、社会的成功、豪邸、家庭の安心、旅行などの豊かな体験など、さまざまだろう。どれもいい。

他者自我としてどこまでも入っていく、という感覚をうまく言葉にできないが、誰もがある種の「傷」としてこれを体験している。
傷つけた側、傷つけられた側、どちらもある。

他者自我に入るとは、自分が傷つけた側なら傷つけられた側として、傷つけられた側なら傷つけられた側として、再体験するような感覚だろうと思う。
カルマのバランスとも言えるだろう。

自我を超えた体験として、物質価値の中にどこまでも入っていく

少なくも、自らの肉体をどう癒し、どう変容させるかという点については、これ以外に方法を思いつかない。

実践している人もたくさんいる。人々の幸せのために、社会活動に尽くす人。音楽体験をどこまでも美しくするために、あらゆる時間を捧げる人。

物質価値の中に、それをひとつの他者自我としてどこまでも入っていく、自らを超えて人々の価値観、宇宙の価値観の中に入っていく。
アップデートした般若心経は、引き裂かれた霊体・物体を融合し、自己と他者をつなぎ、、意識の全体性の獲得へと向かう。

般若心経が古いとか不完全とか不遜なことを言っているわけではなく、すべての叡智は、「わたし」が介在して新たな息を吹き込まないかぎり、死んだ言葉でしかない。

わたしが「アップデート」と呼んでいるものはすべて、「わたしが息を吹き込む」という意味であり、更新というより活性化に近い。

悟りの境地のようなものを言ってるわけでもなく、ただひたすら日常が変わるのだけ。感情の体験も、ものの感じ方も。人生を過ごす意識も。


アップデートのための振り返り、その2は、自らの肉体をどう癒し、どう変容させるかという点を掘り下げます。こっちが本題。

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