寺﨑礁オイリュトミー公演に寄せて〜万巻の書を超えるカラダ
体には、直線がない。
全体的に流体のような面に包まれ、ところどころ筋張ったり、骨ばったり、頭部やお尻は丸みをつくり、ヒトの体をおもしろくしている。
まっすぐなのは、鼻稜くらいのものか。
ゆっくりと踊りはじめる寺﨑さんを見ながら、そんなことを考えていた。
今日は、国立のまちかどホールにて、寺﨑礁オイリュトミー公演があった。
心にはいろんなものが刻みつけられ、帰ってきて何かを始める前に、書いておこうと思った。
寺﨑さんは、天使館オイリュトミーの先輩で、四年ほど通ったヨガの先生でもある。
オイリュトミーは、基礎を動く体を見るのも、練習を見るのも、作品を見るのも好きだ。
寺﨑さんが所属しているペルセパッサの公演も、オイリュトミーを始めてからは、欠かさず見ている。
でも、ソロ公演を我が身に担った寺﨑さんの、覚悟のカラダを見るのは初めてで、それがとにかく、凄まじいほど雑味が削がれた、純粋さとしか呼びようのないものを湛えていた。
オイリュトミーの魅力は、なんとも言えない空間がそこから立ち上ってくることだ。
その空間をわたしは自分なりの言葉で、明確に定義できる。
オイリュトミーから立ち上る空間は、「宇宙の真空に音を伝えるための空間」だ。
肉体には、直線がない。
直線は、見えない補助線のように、肉体にある。
ひとつは下にかかる重力の線として。
もう一つは上へ伸びる光の線として。
この上下の線に、生命的な収縮と拡がりの力が加わると、人の体は均衡も含めた五つの力、五芒星形となる。
光は宇宙の真空を貫く。
それはなぜだろう?
音は宇宙の真空を貫くことができない。
それはなぜ?
わたしたちはよく、波動という言葉を使うが、一般に「音」と呼んでいるものは、波動ではなく振動である。
言葉を、音楽を、完全に意識化して肉体に溶かし込むことで、振動は波動に変わる。
光の波動に変わる。
意識された体を通ることで、音は光に変わり、宇宙の真空を貫く。
わたしは何か説明しているわけではなく、今日の寺﨑さんの踊りから導き出されたことを語っているだけだ。
今日のカラダは、万巻の書を超えていた。
わたしは、わたしの書いていることは、保坂和志の言葉に多くを支えられている。
彼はいう。
作家の描くリアリティだけが、世界を新たに価値づけ、あなたに「生きろ」と伝えると。
そうやってしか生きられない人がいる。
カラダというのは、脳も含めておもしろい世界で、どれだけ言葉で「ない」と叫んでも、カラダにとっては否定にはならない。無にもならない。
「ない」というリアリティをカラダが持ち、また「ない」という知覚を脳が想起するためには、有無の論理を超えて、すべてが肯定された世界から「ない」が発せられる。
はじめて「無」に気づいたとき、はじめて意識が己の純粋さに気づいたとき、いったいどれほどの光が飛び散っただろう。
無極から大宇宙の始まり、自我の芽生えの瞬間だ。
今日の公演は、そんな瞬間の場で、一つの一つの言葉や音楽を聴いた思いがした。
そんなふうに純粋に言葉や音楽にカラダを寄せていく男の姿を見た。
公演はいい。
なんの言葉もいらない。治療家もいらない。教師もいらない。
鼓舞され、揺すぶられ、自分の甘さに打ちのめされ、そして励まされ、自分もそこに向かおうと心を強くする。
純粋なものは汚れやすい。
純粋なものは見えない。
すぐに何かを混ぜてこようとする世界で、すくっと立っていなければならない。
光だけが、人を立たせる。
純粋なものだけが、なんら強制もなく、人を強くする。
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