オイリュトミーシューレ東京、四年一学期の発表会に、上肢帯の解放をみる @大久保
オイリュトミーシューレ東京、四年一学期の発表会を観させていただきました。
言葉、音楽ともにシュタイナーフォルムがメイン。
言葉の響きはおもに上肢帯で形づくります。
その動きを見ていると、胴体はミクロコスモス、腕がマクロコスモスに属しているのが感じとれます。
わたしが最近また熱心にやっているタオ氣功の流れも、腕と脚は大周天に属します。
大周天をやっているとつい経脈と混同しがちなのですが、オイリュトミーでは、経脈とははっきり異なる力の味わいがありました。
脚はどうかというと、胴体にくっついた脚を解放してマクロコスモスへと参入するのは、わたしなどはまだまだで、ようやくスクワットで筋力を回復させているような段階。
天使館シューレでは、マクロコスモス的な立ち方をするために、三年間の床バレエをやります。
バレエ経験者はそのへんが長けていて、骨盤と頚部が綺麗です。
バレエよりもさらに生命的な微細感覚に立つオイリュトミーは、脚をどう解放するのか。
脚でとる音の響きがないわけでないけれど、今日の発表会を観て、シュタイナーフォルムそのものにそのヒントがあるなあと強く感じました。
抽象度の高い言葉を、自分の体や季節の変化に引き寄せてゆく「魂のこよみ」は、すごく見ごたえがありました。
個々の演者は、ドイツ語の意味、意味から解放された母音と子音の要素、シュタイナーフォルムを動き、かつ周囲と息を合わせて複雑に位置を変えながら緩急をつけて動き続けるため、たいへんに集中してます。
わたしもフォルト時代に「魂のこよみ」の発表会に取り組みましたが、いったい自分が何をしているのかも分からず、ただ必死という感じでした。
見ている側は、そのように組み合わされた舞台空間を一挙に体験するので、全体の万華鏡のような展開を目の当たりにします。
全体を見て、はじめて大きな意図が見えてくる。
これって、人生そのものって感じがしませんか?
人生の目的って、個々の日常的な欲求や思惑や葛藤とは違う次元にあって、その大いなる意図を我が身に引き寄せることで、つまり全体とつながっていることを自覚することで、はじめて個別化の身体が完成するんじゃないかなと思います。
絵描きは、言葉で「わたしは絵を描きます」とは言わず、絵を描くことで、絵描きであることを体現します。
オイリュトミーも、シノゴノいわず、集中して動くことで精神性を語ります。
わたしは、人智学やシュタイナーの学術的な側面には興味を失ってしまい、ディテールのほうに走っていますが、シュタイナーフォルムはいいなあと、あらためて感じ入りました。
シュタイナーフォルムは、『アカシャ年代記』の装丁にも、その図が描かれています。
最後の演目、バッハの『主よ人の望みの喜びよ』は、5月の公演で、わたしも三声の分析とフォルム作成に挑戦し、三人で動きました。
高音のキラキラパート、主旋律、支える低音部を、パートを決めて動くのではなく、体を変え、呼吸を変え、パートを入れ替えながら動いていきます。
その作り方の意図は同じだったので、非常に興味深く拝見しました。
またやりたいです。
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