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詩のセッションと、鬼の子の詩

奇才、高橋芳文さんに、1on1の詩のセッションを受けました。
お題をもらって、二週間たらずで八編。

毎日サイコロを振ってログライン書いて、お題をもらって詩を書いて。
脳内アンテナがドクダミの群生のように伸びまくっています。

基本は自由に書いてよくて、最初にこんなサジェッションがありました。

言葉には、「外の言葉」と「内の言葉」があるよ。
「外の言葉」は、人とやりとりするための意味があったり、論理的だったり、自分をコントロールする理性があったり。

「内の言葉」には、リンカクがなくて、もっとうごめいていて、いろんな感情や思いがあっても、なかなかそれを引っ張り出すことができない。

詩は、リンカクがなくてうごめいているものを、引っ張り出してくれる。
詩には「言葉の心臓」があって、心臓が見つかると、「思う」「語る」「する」がそろう。「思う」「語る」「する」がつながって、現実を変えたり、人にも響く言葉になるよ。

というような塩梅。

「言葉の心臓」っていいな。
心臓を持った言葉が自由に手足を伸ばして歩き回る前に、あわてて服を着て隠そうするようなところが自分にもある。
そういう自分も含めてそのまま書いて、セッションを楽しみにしてました。

2回目のセッションでは、実際にわたしが書いた詩を見て、「ここが心臓だね」とか、「思う」だけじゃなくて、「する」を詩にくっつけてみると、心が広がった感覚になるよ、というふうに手を入れていきます。
説明的な言葉を省いたり、句読点を取るだけでも、ガラリと変わる。

「涙」

見てごらん わが子よ
あそこで人が人を切っている

鬼の子は 言われるがままに 雲の下を見た

人の体の ちぎれていくのを見た
人の明るい血が噴き出すのを見た
人の暗い血が流れていくのを見た

人のむき出しの骨や たれた神経を見た
人が再生する 愚かなまでの遅さを見た
人が再生できなくなる その瞬間を見た

そして 人の涙を見た
ちぎれた人のために 涙を流す人を見た

鬼が降らす このたくさんの雨の
コップ一杯にも満たない
ごく少量の 水分に
ごく少量の 塩分に

そのように 人の涙を見た

鬼の子は なぜか それが羨ましく思えた

太陽の熱でもない
火山の熱でもない

人の涙の ほのかな熱に

鬼の子は触れた
 人の体に触れた
  ぎゅっと 抱きしめた
   抱きしめたら 抱きしめられた

2022.6.15 改

この詩、最初に書いたときは、

人の涙の ほのかな熱に
鬼の子は 触れたいと思った

で終わってたもの。
「〈思う〉から〈する〉に変えるとどうなる?」と言われて、
鬼の子も泣いてみたいのかなーと、

鬼の子も 泣きたかった

と書いてみたけど、なんか違う。

そこで、涙に触れた、体に触れた、
抱きしめた、
抱きしめたら、同じだけ力が返ってきた


そいうふうに変えていったら、そこでやっと、鬼の子と人との、確かなコミュニケーションが生まれました。

この詩には、前提があって、「地獄の風景」というタイトルで、鬼が雲の下の人間界を我が子に見せて、人の体、人の苦痛、人の地獄を教えるっていう内容で別の詩があります。
そのアンサーとしての、鬼の子の詩。

雲の上から見下ろしているだけの心に、
心臓と手足が生え、
思いを伝え、触れて、地上まで降りていく。

自分の心的態度にも、変化があるかな。
詩のセッション、おもしろかった。
高橋ヨッシー、ありがとうございました!


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