Translanguagingがあつい「母語で勉強する権利」を保障しよう
Mike MenaというひとのYouTubeチャンネルで、Ricardo Otheguy、Ofelia Garcia、WallisReidのArticle, “Clarifying translanguaging and deconstructing named languages: A perspective from linguistics” (2011) を15分で解説しているという面白い(ほんとに)動画がありおすすめです。こちら
そして最近MHB学会(母語・継承語・バイリンガル)の勉強会で、フィンランドのMultilingualism and Multiculturalism in the Swedish-Medium Primary School Classroom in Finland - Some Teacher Views(Mikaela BJÖRKLUND, 2013) を読む機会があって、UNESCOの「子供たちが自分の母語で学習する権利を保障」しようという提唱を今一度考えている今日この頃である。
さらに、ここで自分の経験で、英語非母語話者に英語のみを媒介語にして、エクセルやプログラミングを教えることで、「二兎を追う者は一兎をも得ず」現象甚だしく、母語での学びの大切さをかみしめている。
一つ目の例は、海外技術研修生(母語はロシア語、アラビック、アゼルバイジャン語などが多かった)への技術習得のために必要なエクセル講習会なのだけれども、来日1週間後ぐらいで、共通語は英語しかないことと、英語での研修であることを前提に参加しているので、英語で教えるしかないのだけれど、進まない、進まない。。。皆さん、母語で学びなおして(復習して)やっと。。。という感じで、私も彼らの母語も全くできないし。。。それでも対面授業だったので、隣でやって見せることもできたので、ゆっくりではあるが、コースは何とか終了する。。というような感じだった。
二つ目の例は、大学の英語の授業でITリテラシを取り扱った際、エクセル演習を英語のみで行っていたら、条件関数のあたりで急に課題の提出がみんな遅れ始めてしまった。日本語の解説動画を見て課題を何とか提出したと聞いたけれど、英語の授業ではあるけれど、英語を学べたのだろうか。。。ということで、実験的に後期は条件関数の部分は日本語で解説をしてみています。就職前でエクセルマスターしたい学生がほとんどだったので。
大学院で学んでいたころ先生方は、「海外の大学院で学んでいたころは、毎晩遅くまで英和辞書を引いて論文を読んで予習復習をしていた」というお話をよくなさっていて、(それなのに、今の学生たちは。。。と続くのだが)、私がちょっとびっくりしたのは、いちいち英和辞書を引いていたら日本語での理解になってしまうから、二度手間になってしまって、時間もかかるし、大変だということである。
でも、それだけ母語で理解することが重要だということなのだと今はわかりみ。
国際結婚の家庭内などでは、2言語をチャンポンに話しているとよく親に怒られることが多い。きょうだい同士ではMixだけど親の前では1言語に統一という経験をした人も多いのではないかと思う。
この2言語ちゃんぽん、Code-mixing(広義のcode-switching:私はCode-switichingで習った:応用言語学分野では)
“code-switching とは,複数言語話者あるいは複数方言話者が会話の中で言語や方言を切り替える行為である.多言語状況では非常によくみられる現象であり,種々の言語学的および社会言語学的な要因が提案されている.
code-switching の程度が激しく,複数の言語や方言が1つの文のなかで素早く頻繁に切り替えられる場合,それを code-mixing と呼んで区別する場合がある.混合の度合いが高く,いずれの言語を話しているかが判然としないケースもある.そのような話者にとって,code-mixing はあたかも1つの言語を話しているのと同じくらいに自然なことであり,切り替えているということを意識していないことも非常に多いという” 堀田 hellog~英語史ブログより抜粋
二つを区別すべきだという人々も一定数いるが、ここでの定義は広義で。
まぜこぜで話していることを、Translanguaging と別の名前で呼んでいるだけじゃないかという指摘もあったけれど、たとえ現象が同じでも、社会的な意味合いが異なるため、terminologyを変えることでそれを示していると理解している。
セミリンガルという現象が指摘されたときにも、ダブルリミテッドに統一しようという動きがあり、”half-Japanese, half-American”略してハーフとなったのだとは思うが、呼ばれているほうは「半分」と呼ばれていることに変わりはない、ダブルナショナリティなどのように倍というように認識を変えていこうということもある。
上述のフィンランドの論文によると、フィンランドでは母語やその子供の属する宗教で学ぶ権利が保障されている、ものの状況はフィン語がメインのモノリンガル意識からやっと多言語に移ってきたばっかりだ、もっと意識しようというような感じだそうだ。
まったく結論ではないけれど、大学生だろうと、研究者だろうと、深い思考やInnovativeなことは、母語のほうが(L2が母語なみであれば別だが)効果的なので、やたらめったら英語で議論、英語で思考、英語でなんとかにしなくても。。。いや、してもいいけれど、L2だと排気量の小さいエンジンになってしまうリスクを理解したうえで試行的にやるのがよいのでは、と思う今日この頃である。
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