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唐人髷(新作落語台本)

伊豆下田の街に異国の日が昇る、
江戸がくゆり始めた安政の世のことでございます。

【お吉の家】

(激しく戸を叩く音)

又五郎
「お吉!吉!」

お吉
「は~い、あら又はん」

又五郎
「何が又はん』だふざけてのかおい!」

お吉
「急に言われてもわかりんせん。どうしたの?」

又五郎
「おおお前、柿崎の玉泉寺にいる、けっっっ毛唐!」

お吉
「ハリスはんのこと?」

又五郎
「毛唐にはんだってやん畜生!そいつの妾になるって!」

お吉
「わっちはハリスはんだけの看護人をお上に申しつかりんした」

又五郎

「看護ってお前下田にお前より看護に向いてるババアが
 何人いると思ってんだ。おめえの商いをお上が知らねえと思うか。」

お吉
「出入りのお店がお暇を出すと言ったら芸妓にはなもできんせん。」

又五郎
「それがおかしいじゃねえか!お上が芸妓と知ってて
 お前をよこせってんだろ。なら看護人てのは建前看板でしかねえ。
 俺じゃなくたってそう思わあ。」

お吉
「どちらにしてもそれに見合うだけのお金は出んした。
 下田の明けの烏ではこれだけの金を貯めるのに幾とせかかるか。
 見合うだけの女として見合うだけのことをするまで。
 芸妓は高く買ってくれるお方の元へまいりんす。」

又五郎
「…それか。慣れもしねえ遊女みてえな口ぶりは。それが
 おめえの答えか。言っとくけどな、七つの頃から仕込まれた
 おめえの新内『明烏』はそんな安いもんじゃねえ。
 おとっつぁんが死んでからもその腕一本で生きてきた
 斎藤きちを一番近くで見てきた俺が保証してやる。
 だがな、芸妓は一度味噌がついたら同じ名声は戻らねえ。
 たいがいは蹴飛ばされた石とおんなじ末路よ。
 積み上げてきた芸を捨てようとしてるって、分かってるんだな?」

お吉
「…支えてくれたこと、又はん、わっち、忘れんせん。」

(又五郎怒り震え)

「……さっさとやることやって戻ってこい。
 このボロ家はまんまにしておいてやる。
 とっとと行っちまえ畜生!」 

(又五郎戸を勢いよく開けて出ていく)

(お吉、少し呆然とした後顔を覆い、一息つく)

お吉
「…支度しなきゃね。」

(優しく戸を叩く音)

住職
「ごめんくださいまし。」

 

お吉
「あっ、は~い。あぁ住職さん。お待ちしておりました。
 すいませんねわざわざご足労いただいて。」

住職
「いやいや、老いぼれた坊主をこうして頼ってもらえるなんて
 ありがたいことだ。古い人間にはよくわからんが、玉泉寺があー
 総領事、とかいったかな。お吉さんそこに住み込みになるんだろう。
 お寺の住み方は坊主に聞けとはなるほど考えたものだ。」

お吉
「ほめられたものじゃありませんよそんなの。
 一人じゃなにもできないんですから」

住職
「いやいやまだ若いんだから卑下するこたあないよ。
 時にお吉さんはいくつになられた。ああもう十六になるか
 時の経つのは早いものだ。じゃあお父上が亡くなられてから十年だ。
 人望もあって実に腕のいい大工だった。
 頭には立派になった又五郎さんの姿も見てもらいたかったよ。
 江戸から降りてきた今の頭に付いて修行したせいか
 どうにも口は悪いが、さっぱりしててね、
 実に気持ちのいい男だと思うよ。」

お吉 
「…住職さん、その又さんのことなんですけど。」

住職
「ああどうした…ふん…ふんふん…はあ私が来る前に
 そんなことが。お吉さんも又さんには全部話しちまえばいいのに。
 芸妓としてやっていくのに随分引きたててもらったんだろう?
 この家だって又さんが自分の手でこしらえたっていうじゃあないか。
 又さんには知る資格があるんじゃないかな。」 

お吉
「あの人はもっといい暮らしをしているはずなんですよ。今頃は。
 貧乏な女一人養うのに、どれだけのものを失ったか。
 でもこの一件でね、手切れ金が自分にも入るなんて知ったら、
 きっと受け取らないでしょ。もうこれ以上又さんに負い目が増えるのは
 耐えられなくって。だからこれはいい機会だったんだって…
 ねえ住職さん、もしハリス様にも嫌われてお暇出されちゃったら。
 あたし尼さんになろうかな。」

住職
「何を言ってるんだよ。そりゃあ仏さまは心を開いてね、
 御仏を信じようというものには必ず慈悲をくださるが、
 やる前からうまくいかないことを考えなくていい。
 それに又さんは『戻ってこい』って言ってくれたんだろう。
 もしそんなことになったら素直に帰ればいいじゃないか。」 

お吉
「うーん、そうですかね…」

住職
「ああそうさ、たまには年寄りの言うことも素直に聞くものだ。なあ。
 うーそれよりお吉さん。随分とこう~んというか髪を
 綺麗に飾っているじゃないか。」

お吉
「あぁこれですか。今お江戸で流行っている唐人髷っていうんですって。
 特に花魁の結い方だって聞いたから、玉泉寺に行く前に
 練習しておこうって。うまく結えてますかしら。」

住職
「ああ、とても見事なものだが、随分と気負いが伺えるな。
 病人のお世話をする人間には気負いが一番の毒だ。」

お吉
「ええ、本来ならきっとそうでしょうねえ…
 あんまり野暮ったい娘に見られないようにちょっと張り切っちゃった。
 ねえあたし今度はじめて四つ手じゃない駕籠に乗るんですよ住職さん。
 様にならなかったらどうしよう」

住職
「ほお、お上が用意するとなると女乗物か。
 ああならその髪はぴったりかもしれないね。
 誰もが乗れるような駕籠じゃあないからな。
 それじゃあ飾る悩みもまたいとしというものだ。
 まあ自分で楽しめる程度におやんなさい。
 今はさっさと支度をすすめようじゃあないか。
 私が遅くなってしまった分取り戻さなくては。」

 

などと言いながら、二人で幾日かお寺住まいの準備をする。
その内に勤めの初日がやってきて、お迎えに来た女乗物。
声にこそ出さないが好奇の目を隠そうともしない野次馬の
群れを貫くように駕籠が通ります。

 

 西條八十が残した「唐人お吉・下田節」の一節には
「行こか柿崎、戻ろか下田、ここが思案の間戸ヶ浜」
という文句が残っております。
柿崎の玉泉寺からお吉のいる下田のちょうど真ん中あたりが
間戸ヶ浜だったそうで。
思いまどう女心はいつの時代も歌の主題となりますが、
惑う心とかかわりもなく駕籠は柿崎に着いてしまう。

すぐに駐日領事・タウンゼントハリスとその通訳
ヒュースケンとの顔合わせの段になりまして

 

(お辞儀をするお吉)

 

お吉
「わっちはお吉ともうしんす」

 ヒュースケン
「What?…よく分らんがそう畏まらなくていい。
 手前はヘンリー・ヒュースケン。ここの通弁官だ。
 こちらがアメリカ合衆国駐日領事、タウンゼント・ハリス様だ。」


ハリス 
「My…」(大きく咳込む)
 

(お吉、心配そうにのぞき込んで)

 

お吉
「お体…」 

ヒュースケン
「ああ、ご覧の通り芳しくない。咳に少々血が混じり始めている。
 どうしてもここに迎える人には直接挨拶をしたいと申された故、
 本日正装の上この場に立っておられる訳だがな。
 幕府からは大まかなことは聞いておろう。しっかり看護の方頼むぞ。」

 

(お吉、看護人とは言葉通りだったと知り無言で驚きつつ)

 

お吉
「…かしこまりました。精一杯勤めさせていただきます。
 ですので、はやくまたお休みになってください。」

(ハリス、息荒くほとんど声は出ず)

 「Don’t worry. All the troubles and anxieties and pain Gone under the twilight.」

 

お吉
「…今なんと」 

ヒュースケン
「すべての悩み、痛みは光の中に、イエスの光に包まれて
 ついには消えていく。そう信じておられるのだ。
 お主にはわからんだろうが、それが敬虔なクリスチャンと
 いうものなのだ。ではハリス様には戻っていただいて、
 お主には私が総領事の中を案内しよう。」

 

かくて純粋な看護人としてのお吉の生活が始まる。
このときそれぞれの年はハリスが五十二、お吉が十六。
親子としては少し年が離れているくらいでしょうか。
幼い頃から家の貧しかったハリスと、幼くして父のいないお吉のふたあり。

 

若いお吉が看護人として達者なわけがありません。
ただ風説によれば牛乳が好きなハリスのためにお吉が
どこをどう探したか、かき集めた量が九合八勺。
十と五日分に相当する量にかかった金が1両3分88文。
米三俵に相当する額といいますから、牛乳という文化が
根づいていない土地でお吉がどれほど懸命だったか伺えます。

 

そしてわずか三日ほど経った頃…

 

(お吉手をついて正座中。一度顔を上げた後もう一度うつむく)

 

お吉
「任を解かれると、おっしゃるんですね。」 

ヒュースケン
「そうだ。今日を限りだ。看護人という名目で、
 ハリス様にとって妾になりそうな人物を送りこむ。
 我々を江戸に近づけさせない手助けをさせる。
 幕府の狙いを知ってて貴様、我々には黙っていたな。」

お吉
「ハリス様を騙すつもりじゃなかったと言ったら、嘘になりますかしら?」

ヒュースケン
「騙そうなどという気構えでないのは、働きぶりを見ていればわかる。
 看護人としての技芸よりも、その心構えの方が本物と言って
 よいくらいだ。ただ我々も幕府の狙いを知ってて
 お主を近くに置いておくわけにはいかない。
 …体に小さな腫物があると、お主言っていたな。
 ではそれが肥大してきたと。幕府には健康上の都合とそう申し伝える。

(目をつぶって一息)

「こちらとしてもお主の働きには感謝をしている。これまでの分の給金、
 三十両だ。支度金の二十五両と併せて、当面食うには困らんだろう。」

お吉
「ハリス様からのお言葉は?」 

ヒュースケン
「ハリス様からはふたつ。ひとつはお主の唐人髷。
 ハリス殿もたいそう気にいっていた。
『あの見目麗しい、私の愛したあの髪結いが、
 元々遊女の結い方だったとは皮肉なものだ』と、そうおっしゃっていた。 もう一つはな…
『In Hopes That You Can Still Find The Way BackTo The Moment』。
 己が己である須臾。そのような時間にお主がまた戻れるよう、
 心から願っていると。
 このふたつだ。直接伝えたら情が移るとのことでな。
 恐れながら私の口から伝えさせてもらった。」

お吉
「そうですか…(目をつぶる)お世話になりました。」

 

帰り路は行きの惑いとは似ても似つかぬ女乗物。
あたりには声こそないが、色の噂の清いことなどあるわけもなし。
針の筵を最後の仕事と駕籠が行きます。
先の住処に着くころにはあたりはすっかり暮れ方で…

 

(お吉、御簾をくぐりつつ駕籠から降りて家へ。)

 

お吉
「…又さん!」 

又五郎
「随分短けえ旅もあったもんだ。これじゃあ何もしなくても
 家にゃあ埃一つつくわけがねえ。手切れ金いくつだ。見してみな。
 (包みを開いて数える)三十両だ。
 何もねえのにたった三日ぽっちでこれだけの額なんてのは
 俺には考えられねえ。そうか、三十両か…
 いいか、今日を限り、俺がおめえを一番高く買ってやる。」

こうして、互いにわだかまったまま夫婦になったお吉と又五郎。
お吉は一度は元の商いに戻りますが、かつての「明烏」の呼び声は、
生涯「唐人」という蔑みに上塗りされることになる。
七十五日程度じゃその欠片も拭えません。
下田の街を歩けば、よくて後ろ指、悪けりゃ石や礫が降ってくる。

 

やがて耐えられなくなって「唐人お吉」を知らない横浜に
二人が移り住む。お吉の商いも髪結いに変わった。
暮らしに穏やかな日差しが差すと願えど、いつからか覚えた酒が
お吉を離さなくなった。
髪結いの商売も立ち行かなくなったころ、
なあんにも言わずお吉は姿を消した。

 

河原乞食・河原者というのは、家畜の革を剥ぐという
卑しい生業のものがよく河原に住んでいたことが
起源だと言われております。
下田は稲生沢の河原にも、どこから流れついたか女が一人。 

(俯いて手を差し出す) 

お吉
「お恵みくださいまし、お恵みくださいまし。」 

(器にお金を落とす)

久蔵
「…これで足りるか?」

お吉
「…ありがとうございます。」 

久蔵
「俺は足りるかって聞いてんだ。なあお吉。」

 (お吉、顔を上げる)

 お吉
「…久さん。」

 久蔵
「記憶までうっちゃったわけじゃあねえか。
 又公の兄弟分の久蔵さんを覚えてんなら、
 又公を忘れたわけあねえな。なあお吉。」

お吉
「お久しゅうございます。」

久蔵
「これでも結構おめえのことを探したんだよ、なあ。
 下田に戻ってるとは夢にも思わなかった。
 要件ってのはな、おめえが捨てた又五郎のことだ。
 あの後又公がどうなったか、おめえがぐだぐだ言おうと
 耳から離れねえようにしようと思ってな。」

 「おめえ横浜に行って髪結い始めたな。唐人髷を売り物にした。
  ハリスんとこ行ってから一日と欠かさず結ってたあの唐人髷だ。
  あれは言い訳だな。毎日唐人髷でも髪結いなら不思議じゃあねえ。
  たった三日の思い出を捨てなかった。
  どんなに蔑まれても、『唐人』の名前を捨てようとしなかったのは
  おめえ自身さ。 」

「あのな、助けを口にしねえってのはな、不実なんだよ。
 街を歩きゃあどんな目にあったか、酒からどんだけ逃げられねえか。
 一度たりとも又公に話したか?なあ。
 俺が見かねて又公にご意見ぶったらよ、
 『あいつは大事なことほど口にできねえんだ。わかってやれ』って。
 しばらくしたらなんも言わずにおめえが逃げた。
 俺が『吉に文句の一つも言わなきゃ気が済まねえ』っつっても
 又公が言うことはおんなじさ。
 『口にできねえやつなんだ。わかってやれ、わかってやれ』って…
 そのうちに奴ぁ病気になってすぐおっちにやがった!」

「河原者じゃあ髪なんて結えねえよなあ吉。
 俺に野郎の死に顔見せやがって。
 吉。おめえは、おめえはずっとずうっとだんまりだ!
 言いてえのはこれでしめえだ。
 あとは俺の知ったこっちゃねえ。(河原の石を拾う)
 てめえなんぞどこでも行っちまえ!」

(お吉、頭を押さえて血を確認するとゆっくり歩きだす)

 

お吉
「…幾度石を投げられたか、ラシャメン結いに、こうやって…」

(お吉、橋の上から水面に映る自分の姿をのぞき込む)

 お吉
「…こんなに汚れて、あの人の、あの人の愛した……」

(お吉、手を合わせて)

「あわれな女と思し召し、私の亡き後の手向けをご無心申し上げます。
 どうかお達者に。そしてきっとまた」

 (お吉、欄干に手をついてそのまま下に。)

 
稲生沢の、お吉の骸を誰がどう見つけたか、知らない。
ただその骨は馴染みの住職の手に渡って、やがて春が来た。

 (手を合わせる住職)

 「お吉さんおはよう。なあ随分いい陽気じゃあないか。
 春ってのはやっぱりこうじゃなくちゃいけないね。
 若い者にばかり先に逝かれた老いぼれにはね、
 随分寒さがこたえるものだからな。うん。

  お吉さんにはね、一つ悔いがあるんだ。ずっとすまないと思っていた。
 ハリス様のところへ向かうとき、お前さん
『これがうまくいかなかったら、尼さんになろうか』って、
 そう言ってたな。その時の私は、
『仏様に心を開けば、必ず救ってくれる』って、そう返してしまった。
 すねに傷のない人間なんてあるわけがない。
 心を開くなんて誰もが容易くできることじゃあなかったんだ。
 あんな言い方しなきゃあ、私のところに相談にでも来て、
 尼さんにでもなって私より長生きするような道も
 あったんじゃないかってね。
 坊主がもしものことばかり考えてしまうんだ。みっともないものだよ。

  …なあお吉さん。見えるかい、桜が。ソメイヨシノだ。
 まだ小さいしね、『あんなものは本当の桜じゃねえ』なんて
 おっしゃるお方もいるがなあ。
 この山桜でも、枝垂桜でもない新しい桜が、
 衆生に愛される日がきっと来る。そう思うんだ。
 愛する物はいくつあったっていいってな。
 そんなことが当たり前になる世が来るって、そう思うんだよ。」

(住職、手を合わせる)

明治から昭和の世になって、下田の隣の川津町には「河津桜」という
新たな桜も生まれた。日本一早いお花見どころとして、
今も伊豆下田の早春は桜を愛する人々で賑わいます。 

「桜見頃の唐人坂で巡る思いはひとりひとり
 泣けば花散る一輪挿しの艶な姿は春の宵」

唐人髷という一席でございます。

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