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♪ 雑記 ~似ているところ1つ2つ~

オチのない雑記 _ 2021.10.20


今日は、「自分と似ているところを見つけると、嬉しくなってしまう」というお話。

たとえば、「大勢の人の前に出ると活躍する」とか「進んで人の世話をする」とか「おいしそうな料理写真をたくさんアップしてる」とか、そういう目に見えていることについての話をしようとしているのではない。

もっと小さくて内面的なこと、「実は○○が大好き」とか「こういうときにこう感じた」とか、そんなことである。


上の娘が小学校に入ってから、下の息子が高校を卒業するまで、いろんな役員をやってきた。小学校の図書室の本すべてにバーコードをつけてデジタル化するという図書ボランティアをやったとき、保護者ボランティア 76名を率いる指揮官をやったこともあった。まぁ、そのせいで喘息持ちになったし、アホなPTA会長と喧嘩をして途中降板・学校出禁という散々な目に …… いや待て、そんな話を書きたいのではない。この話はもう忘れたいから、やめとこう。

もしかしたら「人の前に立って話すのが好きな人」「人をまとめるのが得意な人」と思われているのかもしれないけれど、全然違う。むしろ正反対。

できることなら役員なんてやりたくなかったし、目立たないように静かにしていたかった。実は「手伝ってもいいけど、製作物だけ作らせてくれないかな」と思っていた。

それなのに、なぜか人の上に立たされることになってしまう。得意でもないのに。「誰もやりたがらない役員を、お願いしたらやってくれる人」なだけなのだ。上に立っているときはストレスが半端ないし、いっぱいいっぱいになって他のことが全然手につかなくなるぐらいなのに。そんなことはまったく伝わらないまま、また頼まれ、またやってしまうを繰り返してきた。

きっと自分には向いていない。それは自分ではっきりわかっていた。

そういうふうに、人から見えている部分なんて、可愛い着ぐるみを着ているようなもので、いくらがんばっている姿を見せていても、中の人がどう思っているか、実はどういう人なのか、そんなことはわかるはずもない。

中の人は汗だくで、化粧もボロボロに落ちて、愚痴だらけで、時には舌打ちをするような、決して人に見せられない・見せたくない、ひどい状態なのかもしれない(わたしは舌打ち嫌いだけどね)。絶対に、外見イコール中身ではないのだ。

そう思うことに慣れてくると、他人を信用しなくなる。「この人、本当はこういう人じゃないかもしれないし」と思うと、「表面上のつきあいだけにすればいいや」という気になってくる。

「この人とは仲良くできそう」と思った人が、少し深く仲良くなった途端、「あ、無理、仲良くなれない」と思うようになることなんて、よくあることだった。

なんだか恋愛に似てるな。今、書きながらそう思った。


そんな中、noteを始めて、思ったことがある。

オススメに表示される「フォローしていない人」の記事をなんとなく読んでいて、ふと「あ、この人、わたしと感覚が似ている」と感じることがある。そうすると、もっと似ている部分を探したくなる。

それで、その人の他の記事を読んでみて、また似ている部分を見つけたら「ほら、やっぱり!」と思って、もうその時点でポチッと「フォローする」ボタンを押しているのである。

これは、Twitterでも同じかもしれない。noteでも Twitterでも、フォロー中の数がフォロワー数の倍以上なのは、そのせいである。わたしのことをフォローしてくれようがくれまいが関係なく、わたしが好きだからフォローする。ただそれだけ。

たった2つの似ている部分だけで、人を判断するのはおかしいとわかっている。もちろんそれがその人の全てではないし、他の部分は全然わたしと違っているだろう。だけど、たった2つでも似ている部分があって、それが心にちょっと刺さったということの重みを、最近強く感じている。

フォローしている人のすべての記事、すべてのツイートをチェックできるわけではなくて申し訳ないのだけれど、少し時間が空いたときや、夜寝る前のひとりさみしい時間帯にふと思い出して読んで、「ああ、今日もこの人のこと好きだなあ」と思うのが嬉しい。そのおかげで毎日、元気でいられます。大げさだけど、みんな、ありがとう。


もしこの記事を読んで、少しでも「いいな」と思ってくれる人がいるなら、他の記事を読んで、「いいな」の2つめを探してみてください。

見つかると、いいな。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。読んでなかったらごめんなさい。わたしをサポートしようだなんて血迷ってしまった方がいらっしゃるなら、まずはちょっと落ち着いて。それより「スキ」をポチッとしてみては? 作者がたいへん喜びます。