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ほぼ日の塾は、教えてくれない

ほぼ日の塾1期生の松岡です。

現在、ほぼ日刊イトイ新聞が主催する「ほぼ日の塾」が5期生を募集しています。それに際し、元塾生のひとりから「ほぼ日の塾とわたし」をテーマにみんなでnoteを書かないか、という提案がありました。

塾が終わってからも「戦友」として、オンラインまたはオフラインで交流が続いているのが「ほぼ日の塾」というものを象徴しているなと思うのですが、個人的にも改めていい機会ととらえて、塾で学んだことをふり返りたいと思います。



そもそも応募の動機は不純でした。

僕はずっと「ほぼ日」に一読者として親しみ、何らかのかたちで関わりたいと思い続け、勝手に思いついた企画案をメールで送りつけるような不届き者でした。なので「あの」ほぼ日が塾を開く、塾生を募集する、というニュースは自分にとって、応募しない動機が見つからないほどでした。

一方で、純粋な動機もありました。

僕はずっとフリーライターとして生きてきて、二足のわらじでデザイン会社を立ち上げて、最近は会社経営のほうがメインになっていた中で、当時は行き詰まりを感じていました。このままでいいのだろうか、これからどうしていくべきなのだろうかと自問自答する日々が続き、ひとつ殻を破りたい思いがありました。

そこでタイミングよく目に飛び込んできた「ほぼ日の塾」開催の知らせ。「突破口」を見つけたく、わらにもすがる思いで門をたたきました。



「ほぼ日の塾」は実にふしぎな集まりでした。

一般的に「塾」という場は、塾生側に学びたい共通の課題があり、その答えを与えてくれるところだと思います。でも「ほぼ日の塾」が一風変わっているのは、塾生ごとに抱えている課題がおのおの異なる点です。

ある人は文章を上手く書けるようになりたい。ある人はいいコンテンツを生み出す企画力を磨きたい。ある人はほぼ日のやり方に経営のヒントをもらいたい。ライターや編集者に限らず、大学生や教員の方もいます。「塾に期待するもの」が人によってまったく違うのです。

対して「ほぼ日の塾」は、はっきりとした答えを教えてはくれません。塾生各自が抱える課題について「自分たちの場合はこうですよ」と応えてくれるまでです。

ただ、その向き合い方が真摯で、愚直で、塾生の胸にずしんと響きます。

だから塾生も、まっすぐ「自分の課題」に向き合い、自分のあり方そのものを見つめ直すことになります。「コンテンツをつくる」とはなにか、「ものを書く」とはなにか、「編集する」とはなにかを考え、実践することを通じて、自分の生き方そのものを問われます。

答えを教えられないから、自ら学びとらなきゃいけません。

けっこう厳しい場だと思います。

講師の永田さんをはじめ、塾のみなさんがまじめでやさしいからこそ、自分と向き合うことに耐えられないひとは残念ながら離脱していきます。でも、だからこそ、この場をくぐり抜けた「元塾生」は確実に成長します。「成長したい」「殻を破りたい」といった思いをさいごまで、つよく持ち続けた人たちだからです。



僕のはなしをします。

僕はもともと「奇をてらう人」でした。人と違うことをする、人と違う考えかたをすることが好きで、そういうところを「面白いね」とか「すごいね」と拍手されたい人でした。わかりやすい例でいうと、就職活動のときにあえてスーツを着ないで面接に私服で挑んでみたりとか。

でも「ほぼ日の塾」に通い、「対談をまとめる」「わたしの好きなことを書く」「自由にコンテンツを書く」という3つの課題を通じて学んだのは「襟は正したほうがいいよ」ということでした。

何も奇をてらうことはない。襟を立てて、無理に目立とうとしなくてもいい。きちんと襟を正して、ちゃんとした格好で、まじめで、愚直で、真剣に語れば、おのずと相手にまっすぐ届く。だから面接の場で「あえてスーツを着ない」なんて選択はしなくていい。格好つけなくていいんだよ、と。

そういうことを具体的に言われたわけではありません。言われたのは「松岡くんの書く文章は感じが悪いところがある」という言葉。そこから自分なりに解釈し、自分なりの「答え」を見つけていったのです。

そんな大事なことも分からなかったのかと笑われそうですが、人の成長にはタイミングがあるわけでして。「切実な課題」と「適切な助言」がちょうど合わさったとき、人はつぎの一歩を踏み出せます。僕にとって「ほぼ日の塾」はまさにそうで、早すぎず遅すぎないタイミングで「一生忘れない学び」を得ることができました。

残念ながら、奇をてらう癖が完全に消えたわけではありません。いまでもついつい顔を出してしまうときがあります。その癖が個性として活きる場ではひきつづき出していくかもしれません。でも「襟は正したほうがいい」と思える場面は確実に増えていて、そのたびに「ほぼ日の塾」で過ごした日々を思い出します。あのときかけていただいた言葉(=原点)に立ち戻ります。

僕にとって「ほぼ日の塾」はそういう存在です。

ほんとうに感謝しています。



「ほぼ日の塾」という場では「こうすべきだ」という言い方はされません。あくまで「こうしたほうがいいかもしれないね」と提示されます。こうしたほうがいいと思うけど、あくまで答えを出すのは自分だよ、と突きつけられます。泣き出したくもなります。

でも、だからこそ、この場をくぐり抜ける経験をひとりでも多くのかたにしてもらいたいなと思っています。

わずか数日をともにしただけの元塾生はその後「戦友」になり、心のつながりが生まれ、今なお「あのとき」をふり返っています。大人になって、そういう友達ができるって、素敵なことじゃないですか。

だからこれからも「元塾生」がたくさん増えること、個人的にも楽しみにしています。

奇をてらったことはひとつも書けませんでしたが、ひとりの経験談として、ここに書き記しておきます。



さいごに、僕が「ほぼ日の塾」の課題で発表したコンテンツを載せておきます。ご興味ありましたら。




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