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下里ラッパさんと中澤孝保先生と醤油鯛

ある日、宮古島でお墓に案内された時のこと。
そこは、映画『サンマデモクラシー』のサンマ裁判の弁護士も務めた政治家の下里恵良さんことラッパさんのお墓で、その佇まいに圧倒された。門構から壁縁、奥のお墓の屋根、表面に至っては総タイル張りのモダンな作りだった。私は“下里ラッパさん”と呼ぶことにするが、映画と写真でしかその方の存在は知らない。蝶ネクタイにスーツ姿、帝国ホテルの寿司屋で誰かが下里ラッパさんからご馳走になった時の粋なエピソードやテーブルマナーを教わったという逸話の端々を小耳に挟み下里ラッパさんのお人柄を想像するに、ダンディズムあふれる人だったのではないかと想像する。笑顔あふれる写真の印象が強いせいか、墓を案内されたとき、なぜか口角が上がりっぱなしで、お会いした事もないのに、素敵なお墓ですねえ!と手を合わせ、終始笑顔たえない時間を墓前で過ごした。トンボが弧を描きながら東の風に乗って飛んでいったのを目で追いながら、人の死についてここしばらく考えている二、三の事柄を思い出した。

下里ラッパさんの墓は故人を表すかの如く確かに素敵だった。
でも、私は墓に入りたいという欲求はますます失せてしまった。
死んだら何も残したくない、私が生きた痕跡すら残したくない。
フィルモグラフィーや写真、文字、全ての存在を一掃してほしいとすら考えた。でも、こうして書いてしまったり、映ってしまったりして長い人生を歩んできてしまった私に、それは難しいことだろう。
ああ、悔やんでももう手遅れなのだ。

下里ラッパさんのお墓の前で

カナダにいる頃から、なぜか私は死についてぼんやり考えることが多くなった。あるとき、10代から世話になっていた恩師に忠告された、
「ひとの死に寛大であれ」と。
私はいちいち人の死に泣き崩れたり、故人の思いを受け止めすぎるせいか心乱れ正気を失う時もあった。幼い頃から母の霊的体質はなんとなくわかっていたが、それが自分に遺伝していることは正直分からなかった。19才の頃、当時のマネージャーに「あんた巫女体質だね、シャーマン入ってるよ」といわれたがよく分からないで放っておいた。そしたらその恩師にも、確かにそう思うと指摘を受ける。私は人の死にはあまり深く関わらないよう気をつけるようにしていた。だが、どうしても悲しみ深く感情が乱れてしまうと、引っ張られてゆく。

先頃、家人が腰が痛いというので、いつもの様に末広町にある治療院に連絡せよと促した。私はそこに通って20年以上になる。そもそもの気かけは小説家・矢作俊彦氏からの紹介だった。「阪神の濱中の右を治した腕利き」という触れ込みに、元阪神ファンだった私は信頼を寄せ通い始めた。確かに腕利きだった。坐骨神経痛もそして少しの浮腫なども回復。寝違えた首や仕事柄の身体の癖も治してくれた。そして何より、時折小声で話す車の話や映画の話、治療もさることながら、そんな小さな会話に日常の忙しさから逸脱できて癒された。そしていつも治療後は足取り軽々と末広町を歩いたものだ。困った時の整体治療院。中澤孝保先生の腕を信頼してこっそり春夏秋冬通い続けていた。上野にも神田にもアキバにも近い末広町という場所も好きだった。得体のしれぬ狐や田螺やトカゲなどなどの不思議な黒焼きや。黒焼きやというのも、中澤先生の治療院の所在のおかげで知った。犬のいる猟銃屋を横目に通った治療院。今はなき万惣フルーツパーラーでホットケーキを食べるのも楽しみだった。

私より少し年下くらいだと思っていたので一緒に年を重ねていくであろう、そんな中澤先生に私はいつまでも診てもらえる、それが当たり前のことだと思っていた。当たり前のようにいつもいて、窮地も救ってくれる存在。だが、その治療院が忽然と消えてしまった。
中澤先生の訃報を今朝知った。お亡くなりになられたのは、まだ私がカナダにいる5月だった。突然の訃報。中澤先生の治療院に通った長い時間を反芻していたら、こんなに長く生きてしまっているのか私はと、ぼんやりしてしまった。そして、自分にとってあの治療院が必要だったということを失ってからじわじわとその重要性に気づいた時、ふと朝飯の時に目に入った醤油鯛を手に取り思った。
なければ困る存在のその醤油鯛。
当たり前のそこにいるようで、そのうちビニール醤油袋に代わっていることにも気づいていながら。だって醤油鯛はなにしろチャーミングだし実用も兼ねていて、最近はこれに醤油のみならず、消毒液を入れたりして持ち歩くというアイデアもある。

私は醤油鯛を手に、ぼんやりと中澤先生とあの治療院があった末広町を思い出していた。
遥か遠くの地で、醤油鯛を手に。

どうか安らかに。


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