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洞口依子のら猫書簡


 neeさん、お返事を受けて少しだけタッチします。

 いただいた言葉から、ほんのりさとうきびの製糖されるあの香りと、冬の宮古島の風景を思い出しました。私はバンクーバーに来ても沖縄のさとうきび糖で小豆を煮たりしていますが、疲れた時にあの味わいはたまらなく好きでほっこりします。いただいた書簡の中にあった宮原昌茂さんの資料を読ませていただきました。すっかり私は魅了されてしまい、早く宮原さんの絵をこの目で見てみたい衝動に駆られました。青の水差しの前に描かれたあの陽光の色を、油絵具の重なったところから見える何かを感じてみたいです。そして、ぼんやりでしたが石垣の絵に視線は釘付けになりました。宮原さんが警鐘を鳴らしていた石積みについて。先日那覇の涼からも石にまつわる書簡をいただいていて、ちょっと重なることもあり、沖縄は一体どこへ向かっているのだろうなどと、私などがぼんやり考えたところでどうにもならないことをまたしても考えていました。

宮原さんの絵画がオークションで信じられない安値で出ていたことについても、先日ヨシミの書簡からも考えさせられることもあり、なんだろうなあって思うんです。例えばですよ、私の物などはなんら価値もないのはわかっていますが、洞口依子映画祭で作ったパンフレットだったのですが、これは非売品なので売らないで欲しいと頼んだそれがオークションで売られているのをみて、がっかりしたり。どうせなら捨てて欲しかったとすら思うのです。誰かに貸した本がそのまま安売りリサイクル書店に知らぬ間に売られていたり。まあ個人的なことなので私が我慢すればいいだけですのでなんとかなりますが、これは明らかに文化財であろうというものがその価値もわからないまま世の中に流れている場合など複雑な思いはあります。またある時は遺品整理などで、とんでもないゴミ扱いをされている遺品たちの話を聞いて悲しくなったことも思い出します。それと建築物や土地とかもそうですね。価値もわからずにバンバン壊しちゃう。宮古島もその襲撃にはあっているんだろうな、水脈が枯れないことを祈ります。

ある時、久高島に行った時に、入ってはいけないと看板がある御嶽に貸し自転車が仲良く停まっていたことを思い出しました。そこはその昔、岡本太郎がズカズカと入っていった御嶽でした。岡本太郎は「何もない」その美しさを久高島を探訪することで悟った人だったと思います。その「何もない」をわざわざ可視化するために観光客は久高島へ訪れるのでしょうか。ちなみに私は自分のフィールドワークのためでしたが、そこで誰の目にも触れてないようなものを見て、感じて、ただそれを体感して帰ってきました。あの島で「何もない」を感じることの尊さ、豊さを改めて知るのでした。この世知辛さゆえ最近はなんでも神頼み、スピリチュアル、パワスポ巡礼にロケ地招致となれば島も観光客で潤う所存と思うところではありますが、ご丁寧にパワスポ入口とまで書いてあったりするんですから、開いた口から言葉はでません。

私も先日ちょっと心が涸渇しまして、水を水を早く水を!と思っていたところ、突然離島に流れる機会に恵まれ、そこで何をするわけでもなく、ただ入江を散歩したり、陽が暮れるのをじんわり待っているだけという、とても贅沢な「時間」を過ごしました。それこそ夏の沖縄で陽が沈むまで浜辺にいることはあっても、冬のブリティッシュコロンビアの離島でそれは経験なかったので、素晴らしい時間でした。何もない入江で陽が暮れるのをただ待つだけの時間。居心地のいい椅子も、店も何もありません。ただただそこで、ぼんやりと太陽を見つめるだけ。すると、人の毎日の営みとか、生きることにシンプルな感情が湧いてきます。自然とともに生きてきたブリティッシュコロンビアの先住民の暮らし然り。そういう意味では何もない場所でしぜと対峙する時間を経て、やっとブリティッシュコロンビアにきたんだなという実感がしました。「何もない」を感じ、「何もしない」をする事の心地よさに今更ながら、人として生きる幸せすら感じることに感謝したり。

またお手紙しますね。

どうかご機嫌よくお過ごしください。元気でいてよ。

日本の昨日にいるバンクーバーより  洞口依子

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