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2024/08/22 曖昧な琥珀

どれだけの人が「運命」というものを見たことがあるのだろう。おれはある。良かれ悪しかれ、おれを大きく変えてしまった。けれど、それが「運命」というものなのだろう。
「偶然」と「運命」は似て非なるものだと思う。だが、そこに確かに存在する違いはなんなのだろう。暇を見つけては考えた結果、一つ自分の中で定義づけができた。「自分の意思の介入の有無」だと思った。おれは、自分の手で「偶然」で終わるはずだったものを「運命」に変えたのだった。自分自身が望んだのだった。
初めて話した時、彼の人はおれに似ていると思った。親近感というものを初めて感じた瞬間だった。同じ人種だと思った。けれど、それはおれの思い違いだったことに後から気がつくのだった。おれの世界には哀しいことばかりだった。けれど、おれはその哀しさを全て受け入れられるようになりたかった。だから、全ての哀しさを抱いて、それを一つも忘れないように生きてきた。今日までの哀しいことを今でも憶えている。きっと、彼の人もそうなんだと思っていた。実際、哀しいことは多かっただろう。おれの哀しさなんて、比べものにならないくらい。けれど、彼の人はその哀しさを全て否定していた。哀しさを全て捨てて生きていた。そうでもしないと哀しさに潰されて生きていけなかったのだと思う。けれど、その彼の人を肯定してしまったら、それはおれの今までを否定することになってしまう。おれにとって彼の人は大切だった。それは今でも変わらない。けれど、それでもおれは彼の人を肯定することができなかった。おれは次第に彼の人の全てを否定するようになった。自分を否定しないためには、彼の人を拒絶しなければならなかった。二律背反。彼の人に抱いた愛情は、今となっては拒絶と後悔と懐旧に形を変えておれの記憶に刻みこまれている。
おれは「曖昧」を「曖昧」のまま捉えた。おれは彼の人の隣にいることができれば十分だった。それで、少しだけ体温を分けてくれれば、それ以上は望まなかった。粘膜なんて必要なかった。そんな関係を言葉では何と表すのだろうか。「友達」に向ける情にしては深すぎた。しかし「恋人」に粘膜を求めないことはありえないらしい。おれには彼の人との関係の名前がわからなかった。友達に抱く愛情ではない、けれど恋人になることを望んでいるわけでもなかった。曖昧な関係。名前なんてない。それでよかった。おれは「言葉」を伝えることが苦手だった。だから、彼の人には「音」を伝えていた。その方が伝わると思っていた。拙い音だったけれど、言葉よりは綺麗に紡ぐことができていた。曖昧でもいい、全てを言葉に、明瞭にする必要なんてない、そう信じていた。けれど、彼の人は違った。「曖昧でわからない」と。次第に彼の人に伝えたかったことが伝わらなくなり、意思疎通ができなくなっていった。煮え切らない態度をとり続けるおれに対して「友達」という関係に着地を求め、次第に体温の交換も、隣にいることも許してはくれなっていった。次第におれは彼の人の全てを否定するようになった。自分に拘るようになった。ただ漠然と大切にしていた「曖昧」に拘った。自分が大切にしていたものを守るためだった。

ただ、次第に最低限必要な「明瞭化」則ち「言語化」の能力が著しく下がった。どうしておれは「明瞭化」を嫌っているのだろうか。「言語化」をすることが自分の否定ではないと気づけなかったのか。愛情は視界を塞ぐ。と、いうわけで抽象的な物事や感情、感覚をきちんと言語化する訓練を始めている。最近感じるのは語彙の少なさ。例えば、おれは「強い音」を響かせたいのだけれど、おれの言う「強い音」とは何か、説明ができない。「硬く太い弦の音」というわけでもない。おれの脳内の「印象」を言葉で表現することができない。そもそも「音」というのは感覚でしかないから言葉で説明するのは限界がある。百聞は一見にしかず。けれど、そこで諦めてしまってはお話にならないから、努力する。諦めてしまっては何も変わらないだろう。何もしなければ何も変わらないことは今の状況が証明している。辞書の書き取りをしたいと思い立って新明解を買ってから数年が経った。時間の流れとは恐ろしい。

夏休み。体調を崩しがち。暑いし。四ヶ月身体を蔑ろにし続けたツケが回ってきた。セッションやライブに誘われているものの、言い訳をして断り続けている。家にいるか、病院に行くか、くらい。暇。生活に締まりがないから練習にもならない。かといって昔のようにスマホやパソコンを触って時間を潰しているわけでもない。何をしているのか自分でもわからない。マリーンズの試合は一球目から27アウト目まで見ている。毎日三時間。非常に有意義な時間の使い方だ。あ、鎌ケ谷スタジアム見に行こうかな。丁度対マリーンズがあるといいけれど。

コントラバスの話をしよう。ジャズ・ポピュラー系プレーヤーとしての主観。ポップスが溶けて弓がベタベタになったという話は前に書いた。カッチカチのコルスタインも、塗ってしまえば柔らかい。おれの技術や弦が古い(五年物のスピロコア・ライト)というのもあるが、余計な雑音が気になる場面が多くあった。「汚い響き」というと伝わるだろうか。主旋律を響かせたい場合に余分なの響きが乗ってしまうのだ。おまけに、弦に引っかかり過ぎるから細かい音符が弾きにくくて仕方がない。
そんなわけで巷で話題の「光瞬松脂 ZERO」を買ってみた。溶けない、というワードに惹かれた。コントラバスには「B」が向いていると記載があったが生憎売り切れだった。他の松脂と併用する気はないからどちらでもよかった。 使ってみた。張り替えたての白毛。まず毛に乗らない。パンフレットの「付属の眼鏡拭きで拭ったあと、20往復程度」の文章に従ったはずなのだが。頑張ってぬりぬり。ここで注意なのは、かなり割れやすいということ。リングに掠っただけで欠けた。「割れやすいので注意」と書かれていたものの、ここまでとは思わなかった。硬い床に落とそうものなら粉々になる未来が見える。取り扱いには十二分な注意が必要。ただ、他の松脂に比べて圧倒的に塗る頻度が少なくて済むから、毎日気を張る必要も無い。
肝心な引き心地。さらさらで軽いのに、ちゃんと引っかかる。もっとカサカサ、カリカリするかと想定していたが、いい意味で期待を裏切られた。ちゃんとコントラバスらしい低音を響かせてくれる。E線A線も簡単に鳴る。なのに軽いからハイポジションも華やかに響かせてくれる。伴奏もソロも、これ一つで十分。あとは自分の技術次第。練習しよ。




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