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見ているところはどこ

すごく当たり前のことなのに30数年気づかなかったことがある。


ある日、友人と道を歩いていた時にふと、

「こうやって一緒に歩いていても見ているところって

みんな違うんだよね」とつぶやいてみた。

その友人はすごく話に食いついてくれて

しばらくそのことについて話した。


同じ景色を見ていても

焦点を当てるところや風景の切り取り方がひとりひとり違って、

それは無意識に自分の経験や興味に基づいた

視界を作り上げているのだろう。


今は歩きスマホがほとんどで、視界はスマホの画面に一点集中だ。

人に迷惑をかけるという点では腹立たしいことだが、

見たいものがそれなら仕方がない。

歩きながらスマホを見なければならないのはマップ以外に思い当たらないのだが、みんな一体何を見ているのだろう?

すごくもったいないなと思う。

現実に見えているものの方がわたしにとっては貴重なことだ。


あそこにあんな店がある。

あの看板のフォントが良い。

あんなに凄いマンションにはどんな人が住んでいるんだろう。


そんなことの方がどうでもいいと思う人もいるでしょうけど。


イヤホンで音楽を聴いたりすることもない。

五感をフル活用して歩く。

そうじゃないと人との距離感を保って、

危険を回避しながら歩くことができないから。


スマホがなかった時代はみんなどこを見ていたのかな。


電車の中など観察したい人もいないくて見るところがない時は

せきしろの自由律俳句

「目を開けていても仕方ないので閉じる」

(引用:カキフライがないなら来なかった)

というのをすぐ思い出して眠くもないけど目を閉じている。


話は少しずれたが、

道を歩いていて一瞬のすれ違いに

妙に爪痕残してくる人物がいる。

あちらとしてはそんなつもりはなく

ナチュラルに自分の今を生きているだけなのだろうが

なんだか印象に残って

それこそスマホで撮りたくなるが

それはもちろんできないので

家に帰って記憶を頼りにスケッチしたりする。


昨年の初冬くらいか。

団地の隅の小さなベンチで

中学生の女の子がアイスを食べていた。

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寒いのに。

ひとりで。

中学生の女子といえば友だち至上主義。

そんなお年頃の女の子が

外でベンチに腰掛けて一人の時間を楽しむ

なんていう大人の嗜みをやってのけるその独立性に

尊敬のような羨望の気持ち。


わたしも本当にひとりぼっちの思春期を過ごしてきたが

友だちがいないことは紛れもない事実なのに

ひとりでいることを恥ずかしく思っている自分がいた。

もっと堂々とひとりの時間を楽しめば良かったな。


アイスの女の子は赤いマフラーをしていた。