少し休みます。

弱気な事を投稿してしまってお恥ずかしいです。自分の整理のためにも、今考えている事をちゃんと書こうと思います。

去年の3月から始めた漫画家としての活動は順風満帆で、想像もしていなかった成果が幾つも得られました。その事については折を見て順次ご報告していきます。

だけど、それが上手く行けばいくほど、プライベートはひどく落ち込みました。人に相談しても仕事が上手く行き過ぎている手前、贅沢な悩みに受け取られてしまいます。結論から言えば、ぼくは漫画家として活動する以前の、何者でも無いサラリーマン時代の方が恵まれていたのでは無いかと、あの頃の方がまだ人間として健やかだったのでは無いかと思う様になりました。

また漫画「左ききのエレン」では、自分の中に生まれた悩みや闇をアウトプットしていますので、それを直視する習慣がついてしまったのも影響しているかと思います。

自分や、周りの人間の心を見すぎてしまったのだと思います。

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これは漫画「左ききのエレン」で省略した設定なので、ネタバレではありませんが、エレンが前髪を伸ばしてフードを深々とかぶるのは「視界を限定するため」です。これがどういう事かと言うと、エレンの才能は「見る才能」で(あかりの「魅せる才能」に対し)微細な物事の変化を見逃さない、もとい見逃す事ができないという才能です。これが人間に向けられると隠しきれない感情が僅かに表情に現れる、いわゆる「微表情」を認識できてしまいます。この設定については、ニューヨーク編で触れました。

これによって、エレンが外見に対して持っていたコンプレックスの理由が分かると思います。岸アンナがオーダーメイドのコートに寄せた手紙の中で「高い身長と胸を隠すために猫背になっている」と指摘している様に、エレンは自身のセクシャリティを隠そうとしています。微表情を認識する事によって、男性の視線を必要以上に感知してしまうがための結果です。

また、自殺したのかも知れない父親の晩年の絶望も手に取るように分かってしまった。エレンが横浜の美術館の壁に10年ぶりに描いた絵は、自分を置いて死んでしまった父親に対する悲しみや憎悪が込められています。エレンは絶叫する代わりに表現らしき何かを壁にブチまけました。

ぼくは「左ききのエレン」を描き始めた頃、エレンの事をちゃんと分かっていませんでした。表現する事でしか生きられない人間の悩みがどんなものか想像できませんでした。なので、エレンの心理描写は第4章辺りまでほとんど無かったし、その頃でも彼女をどう救済できるかの筋道が立っていませんでした。それに対して、光一の悩みはどれもかつて自分自身が味わったもので、何が辛いのかも、どうすれば良いのかも、ある程度理解していました。そして、どう救済されるのかも最初から分かっていました。

第8章を描き始めて、最新話で光明を描き、光一の物語の帰結が見え始めた今、自分が光一に嫉妬している事に気がつきました。彼は、ぼくが出来なかった領域に行こうとしている。ぼくが挫折し逃げ出した広告の世界で、懸命に立ち上がろうとしている。

同時に、現実の世界でも周りの広告業界の知人たちが輝かしい成果を上げています。ちょうど年齢的にも脂が乗ってきています。ぼくと同世代の広告人達が、今まさに脚光を浴びようとしている。周りのみんなも、それを褒め称えている。ぼくが出来なかった事、届かなかった夢、叶わなかった理想を、今まさに誰かが手にしようとしている。光一も。

ぼくは捨ててしまった道を、地に足がついた成功を、金曜日の夜には同僚と飲みに行って、休日には恋人と過ごし、仲間達とLineで愚痴りあう生活を、堪らなく恨めしく思う様になりました。今となっては、ぼくはエレンの絶望が分かってしまう。どんなに表現する事が許されたとしても、本人がそれを望もうが拒絶しようが無関係に、内面から湧き上がる止められない衝動のまま生き続けなくてはいけない呪われた人生を、彼女が愛する事ができるのかと。

最新話の1つ前で、エレンは上海にいました。その前はブルックリン。エレンは水辺と都市が同居する横浜と似ている街を転々としています。そこで、以前エレンの偽物だったレイと一緒に暮らしています。

レイは、ツイッターで話題になったなんちゃってクリエイターです。わざわざ自白する必要も無く「フェイスブックポリス」で注目して頂いた自分を重ねています。何かの手違いで舞台に上がってしまった凡人。本物になりたい偽物。エレンによって救済された彼女に、今度はエレンが助けられています。

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設定とも心理描写とも少し違う、個人的なジンクスの様なものなので、ご説明するのも恥ずかしいのですが、「エレン」「あかり」「さゆり」の3人にだけ、シーンによってある箇所を描き分けています。それは耳です。

「左ききのエレン」では、左ききを天才の隠喩として使っているので、左耳は才能側に対して向けられています。右耳は普通の人間に対して向けられています。エレンはずっと両耳とも見えていません。エレンの耳はどちらにも向けられず、常に自分の中に向けられています。それに対して、さゆりは途中まで両耳が出ていますが、第4章の光一が浮気を懺悔するシーンを境に両耳とも塞がれて、ニューヨークからは左耳だけ出しています。つまり、エレンの声だけを聞ける様にしているのです。あかりは、最初からずっと左耳だけです。

そんな描き分けを、個人的にしていたのですが、上海のシーンからそれに付け加える形で「エレンは右目を隠している」という描写をしました。もはや、左目(才能)だけを見る事に特化した、表現をするだけの存在に変貌しています。表現する事でしか生きられない呪いが、体全身に回ったかの様に。

そんなエレンに、レイが「まだ日本に帰るのが怖い?」と尋ねます。この物語は光一が救済されるための物語として始まりましたが、今はエレンも救われなくてはいけないと思っています。でも、その答えが見つからないどころか、ぼくは光一に対して猛烈な嫉妬を感じ、狂いそうになっています。

光一が羨ましい。仲間に恵まれ、そこそこモテて、まぁまぁの仕事を任され、そのくせ悩んでいる。贅沢な悩み。恵まれた絶望。羨ましいと同時に、光一にエレンの悲しさが分かるものか、佐久間威風の呪いが分かるものか、岸あかりの美しさが分かるものかと、悔しいんです。ほんの数年前の自分に、激しく黒い感情を覚えている。

第一話を描いた頃には、エレンはなんで光一の頑張りを分かってくれないんだよ、分かってくれるまで描いてやるよと思っていたのに、今では「光一、お前はまだ本気出してないだろ」と思っている。そんなに、ありとあらゆるものに恵まれておきながら、その程度しか頑張れないのかよと。ふざけんな、何もかも持っていない人間を前に、どのツラ下げて胸をはれるんだよと。

いま、がむしゃらに社会の中で働いている、昔の甘い自分自身に対して、激しい嫌悪と羨望を込めて、最終話までの物語を熟考し直したいと思います。

光一だけが救われる物語で終わる事はできません。エレンが救われる結末をつくれない限り、描く事はできません。

ですので、少しだけ時間を頂ければと思います。その先が見えた頃に、また再開します。


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