オープン前のPARCOに招待されたかった話

最近色々と自己実現できた結果、他人に嫉妬する事が減りました。それでも、未だに嫉妬する事はあります。「自分が嫉妬する相手が、自分がなりたい姿だ」と誰かが言っていたので、嫉妬の気持ちを無視しない事も大事だと思います。

最近感じた嫉妬は「PARCOオープン前に招待された人達、ズルイ」でした。

「PARCOオープン前に招待された人達、ズルイ」

なんという器の小ささでしょう。キラキラしたものに憧れる田舎者まるだしです。じゃあ「そんなにPARCOに行きたかったのか?」と聞かれると、確かに行ってみたかったけど本質じゃない。うちの奥さんは事務所経由で招待されてたので、行く事が目的なら付いて行けば良かった。でも、そういう事じゃない。ぼくがPARCOに呼ばれたかった。パル子にとって特別な男でありたかった。なんというケツの穴の小ささでしょうか。目も当てられません。

でも、ぼくの漫画の作風は「直視したくない人の恥ずかしい感情」と向き合う事を大事にしているので「PARCOに招待されたかった自分」は何が欲しかったのか真剣に考えてみます。

広告代理店勤務の時は、優秀では無かったけど心は案外真面目というか、真っ当に広告業界に夢を見ていました。佐藤可士和さんみたいになりたいと思って志したし、業界誌で特集される様な有名なクリエイターになりたいと思った。「左ききのエレン」のテーマを引用するまでも無く、ぼくは天才になりたいと思っていました。PARCOに招待されたかった自分と比べると、かなり真っ当な気がします。

ちょっと脱線しますが「ドラゴンボールはバブル時代が反映されている」みたいな説をたまに聞きます。いけいけどんどん、右肩上がり、そんな空気とマッチして悟空が強くなり続ける、敵も強くなり続ける漫画が大ウケしたと。ドラゴンボールは不朽の名作ですが、それっぽい最近の「右肩上がり系のバトル漫画」が読めなくなってる事が気が付いて、おっさんになったなと思っていた所だったんですが、もしかしてちょっと「時代じゃ無い」というのもあるかも知れません。

それで言うと「天才」というのも非常にバブルっぽいと思ってます。エレンは色々なインタビューで話ししてますが「時代劇」として描いています。第二部HYPEは現代劇ですが、あれは実は「天才が居なくなった後の世界」みたいな気持ちで描いてます。だからエレンは絵を描いていないんです。神谷とかSISとか色んな強キャラが出てますが、あの人達はただ優秀な普通の人達です。

漫画のセリフから自分が救われるのはよくある事で、自分はHYPEで「天才が居なくなった後の世界」を描いている。って事は、当然ですけどぼくはこの2019年が「才能の時代が終わった時代」だと認識しているという事です。皮肉ですが、漫画の中の話が先なので、現実に理解を転用するのに時間がかかります。

ここらで「インターネットがもたらした」とか「SNSによって」とか話を簡単にしても良いんですが、何と無くそれ以上に「全てが高速化されてる時代」だと思ってて、それは結局インターネットの話にはなるんですけど、技術は時代のニーズの反映なので、とにかく「速い時代」とだけ認識してます。速いって事は、物事が均一化する事なので、才能の時代では無いんじゃ無いかと思う様になりました。

天才と呼ばれる様な唯一無二な才能を持つよりも、もっと速く手に入るラベルが欲しい、みたいなイメージです。はっきり言って「天才は分かりにくい」んです。だから理解されるのに時間がかかるし、下手したら死後に理解される。そのスピード感は今っぽく無い。

なんか結局マスメディアの時代に戻ろうとしてる気がしてます。これはテレビの時代とかでは無くて、大きなチャンネルを求める時代と言うか。人とかコンテンツがチャンネルになる時代で、それはもう大昔から言われてた「多チャンネル化」の一つの未来だとは思うんですが、多チャンネルの時代があったのか無かったのか僕には分かりませんが、とにかく今はでっかいチャンネルを求めているんじゃないかと思うんです。

ユーチューブチャンネルしかり、アニメや漫画コンテンツしかり、オンラインサロンとか、タピオカもそうだと思います。「みんなが知ってるもの」「人が集まっている所」に更に人が集まって、その中でコミュニティが発生してる。コミュニティと言うとサロンくらいしか思い付かない人もいるかも知れませんが、ぼくは「タピオカ」も「ラーメン二郎」もコミュニティだと思うんです。

これまた「ハッシュタグ的」みたいな安易な表現をしてみても良いのかも知れませんが、とにもかくにも「私はこの集団に属している」というか、何かの意思表示で自分にタグ付けする様なイメージで、様々なコミュニティ的な何かを身に纏っているんじゃないかって。で、そうなってくると、多くの人が身に纏うものは、よく知られている人気があるものが更に人気になる。だから「タピオカ」も「好きな漫画」も「好きなユーチューバー」も、ファッションブランドと似たようなもので「ナイキ」とか「バレンシアガ」で。

ちょっとダラダラと要領を得ない長文で申し訳ないですけど、数年前から「フォトジェニック」「映え」みたいな話がありますよね。要は「写真の中だけでイケてればいい」的に揶揄されるああいった行動。バレンシアガのキャップも、ビルズのパンケーキも、本来の洋服・食品としての効果効能機能体験は二の次に、全てが記号化されて扱われる。それが「映え」だと思うんですが、インスタ上に限らずあらゆるものが「コミュニティ的な役割として」扱われているんじゃないかって。名刺みたいな?ハッシュタグみたいな?要は、話が速いというか。

さっきの「でかいチャンネルを求めてる」という話に戻ると、全てのものがチャンネルとして機能できなくて、知名度とかイメージとかそういうものがハッキリあるものじゃないと世間に向けての記号として扱えない。

ちょっと無理やりに最初の話に戻しますね。ぼくがPARCOに招待されたかった心理は、もしかすると「PARCO」が僕にとっての「ナイキのスニーカー」であって、更に「オープン前に招待される」というレア度を鑑みると「限定エアマックス」だったのかも知れないと。それを所有している自分でありたかった。ぶっちゃけ、その時はPARCOにどんなショップが入ってるかも知らなかったし、行って何がしたいのか分かんなかったけど「PARCOに呼ばれる自分でありたかった」みたいな、クソどうでも良い気持ちでした。でも、そのクソどうでもいい感覚が、割と今普通にあるんじゃないかと思うんです。

よくわかんない結論で申し訳ないですけど、まだまとまってない話をつらつら早朝に書いているのでどうかご了承ください…。

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