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天才になれなかった全ての人へ

漫画家のかっぴーです。

ぼくは美大を卒業し、新卒で大手広告代理店でクリエイター職になり、6年ほど広告業界で働きました。

元はと言えば、高校の文化祭で着るクラスTシャツをデザインした時に「お前デザイナー向いてるんじゃない?」と数学の先生に言われて、その気になった事がはじまりでした。高校の図書室で調べてみると、どうやらグラフィックデザイナーという職業の花形は(少なくとも当時は)広告代理店であると。そして、大手広告代理店に入社するには名門美術大学を卒業する必要があると、そう書いてあったのです。ぼくはラッキーだと思いました。今から美大を目指せば、高学歴しか入れないと思っていた大企業に忍び込めるかも知れない。何を隠そう、ぼくは勉強が得意じゃ無かったのです。

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それから、横浜の美大受験アトリエに通い始め、一浪はしましたが何とか武蔵野美術大学の視覚伝達デザイン学科に入る事ができました。思えば、高校時代から「こういう戦い方をしたら有利かも知れない。自分は天才じゃ無いから。」という発想で生きてきました。みんなが受験勉強を始める前に、美大受験に切り替えたのもそう。そして、美大生になってからもフリーマガジンの編集長をやってみたり、音大生と合同展示を企画したり、とにかく「他の優秀なヤツがやらない戦い方を選んで、競争相手がいない場所で目立とう」と考えていました。

それは就活までは思惑通りにいきました。ものすごい倍率の大手広告代理店のデザイナーにやっとなれたかと思えば、そこにいるクリエイターは全員その狭き門をくぐり抜けてきたワケですから、ぼくはその他大勢でしか無かった。広告業界の面白い所でもあり厳しい所でもあるのが「大会があるサラリーマン」だという点です。広告クリエイションという仕事は、ある種の競技で、全国大会も世界大会もあれば、アンダー30の若手だけの大会など、実に様々な賞レースが存在します。ぼくは、辞めるまでの6年間そういった賞とは無縁のサラリーマンライフでした。

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もちろん、賞を諦めていた訳ではありません。例えばカンヌ広告祭という世界大会では出場するだけで数十万円のエントリー費用がかかります。基本的に、それは広告主や広告代理店が支払うのが通例ですが、ぼくの仕事はその予算をもらう社内審査すら通らないのです。ぼくは意地になりました。会社の偉い人が認めてくれないからと言って、世界的クリエイターが認めてくれないとは限らないと。自腹で数十万円を支払ってエントリーしました。結果はもちろんダメでした。貯金がカラになって、それから賞を狙おうというモチベーションは減っていきました。

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ぼくはいつの間にか「誰もやらない道を選んで戦う」というスタイルを捨てて、正面から「競争に勝つ」を目標にしていました。広告代理店の空気が、そう思わせたのかも知れませんし、憧れの先輩たちが賞をとりまくる様な方々だったのもあるかも知れません。王道から逃げようと思って、面白法人カヤックというユニークな会社に転職しました。

そのカヤックで、自己紹介の代わりに描いてみた漫画が「フェイスブックポリス」で、そこからあれよあれよという感じで、気がつけば漫画家として独立する事になったのです。言わずもがな「左ききのエレン」は自分の経験をかなり元にして描いています。

そんな広告業界の王道から逃げ出して、漫画家としても変わり種の、王道とは無縁の人生を歩んでいるぼくですが、この度「左ききのエレン」の主人公・朝倉光一が第40回新聞広告賞を受賞しました。

もちろん、今更「自分が広告クリエイターとして認められた」とか「リベンジしてやったぜ」とか、そういう風には思っていません。この受賞は「左ききのエレン」という作品が、GOという新進気鋭のクリエイター集団と出会って生まれた仕事で、それを採用した朝日新聞の英断と、素晴らしい題材をご提供して下さったJINSの功績が全てです。あくまで漫画家として関わらせて頂いたものです。

ただ、広告代理店の中で逃げずに戦い続けた朝倉光一が、この映えある賞を受賞してくれた事が本当に嬉しいです。

以前のインタビューで「朝倉光一は、かっぴーさんの分身ですか?」と聞かれた時に、はっきりと違うと言いました。ぼくは、あくまで広告の道を諦めた人間です。その代わり漫画家という新しい夢を見つける事ができましたが、朝倉光一はぼくの代わりに広告業界に残ってくれた存在なんです。

ぼくの代わりに、戦い続けてくれた朝倉光一。

新聞広告賞、受賞おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。


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