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環境マウント

この前の記事で、大して環境によくないのに「環境によいこと」と思わせているものが多いと書いた。

これは商品を買わせるためにわざと環境によさそうなイメージを植えつけているものに限らず、必ずしも悪意があるわけではないものも含まれている。本当の姿以上に「環境によい」とアピールされているものが多い気がするのだ。

というのもひとつには、専門家の言う「環境によい」というのは「比較的環境によい」という意味であることが多く、それはつまりマイナスの量が少ないだけなのに、「環境によい」と表現することで環境にプラスになると思わせているというような点もあるように感じる。

一般人は深く考えなければそれが文字通り「環境によい」のだと理解するだろうし、専門家ですら勘違いしているように見受けられることもある。

昨日のラジオで面白いことを言っていた。全く別のテーマで発せられた一言なのだが頭に残った。

「ビーガンの人は、そうでない人より神聖さが上であると思っているようで嫌だ」
というものだ。

全てのビーガンの人がそうであるわけではないが、そういう傾向はある気がする。

そして、これと同じことが、環境によいことをしていると思っている人にもしばし当てはまる気がするのだ。「私たちの方がエコで素晴らしい人間だ」という驕りがあるような。

そうでなければ迷惑を顧みず、デモという名の破壊行為なんかできない気がする。本当のところは分からないけれど。

そこまで激しくなくても、「私たちはEVに乗ってて太陽光発電しているし、Bioのものしか食べない。君たちもそうするべきだ!」というような会話はちらほらと耳にする。

その行動が本当に世界を救うのであれば皆がそうするべきなのだろうけれど、ちょっとマイナスの度合いが少ないだけだと認識していたら、なかなかそんな風に偉そうには言えない。

「太陽光発電する方がきっといいよ」
というような、穏やかな提案になると思う。

その絶対善だという確信はどこから来るのかというと、本人が深く考えていなかったり、人間が本質的に他人より優位であることを示したい生き物であるせいかもしれないが、そもそもは専門家が「環境によい」と宣伝してしまっているのが原因だと思う。

一方で、環境汚染による気候変動も明らかなものとなり、今、私たちの環境は危機にさらされている。これを止めることは緊急の課題だ。

それなのに私たちは相変わらず、「環境によい」と呼ばれる新しいものを買って消費を続け、今までとほぼ変わらぬ生活をしている。なんだか世界規模で偽善が行われているようで、気持ちが悪く感じるのは私だけだろうか。

では、どうしたらよいのか。

解決策が全くないわけではない。でも、環境によさそうな何かではなく、明らかに効果があるものに力を注いでいくべきだろうなとは感じる。


この記事は別ブログに書いたものを移行したものです。

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