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足助のおばさん 私の語学漂流 4

ダビデソン先生を始め、足助のキリスト教会(厳密に言えば宣教師館)で英語を学んだ期間にはたくさんの出来事がありました。ただ、それらは英語をひとすじに学んでいたので「漂流」と言える状態ではありません。一つだけ、1992年にアメリカで、服部剛丈君がハロウィーンで、「freeze」という停止を意味する言葉を理解できず誤って銃で撃たれた事件がありました。その頃宣教師館で英語を教えてくれていたGivan先生はアメリカの方でしたので、私たちはこの話題を英語で語りたかったのですが、いかんせんボキャブラリーが足りません。私はその頃英検2級に合格していて、Givan先生から見ると生徒の中で一人だけ語るに値する相手と見なされていたようです。この時に私の中で「リアルな話題を英語で語り合いたい」要求が強くなったように思います。
その前後から、「新婦人足助(準)支部」として活動していた組織を「豊田支部足助班」に組み替えました。我が家の子どもたちが二人とも保育園に行くようになり、私が昼間豊田支部へ出かけることが可能になったのです。その頃新婦人新聞に「新婦人子ども英語小組」ができ始めたニュースが載るようになり、私が講師になって月1回の「美里班子ども英語小組」が発足しました。週休2日制が試験的に導入され、第2土曜日が休日になり、その休日の土曜日の午前中を充てることにしました。足助町は全国でも珍しく月2回土曜休日になりましたので(豊田市に合併される前でした)、私としても2回ある土曜休日の1日だけという条件は好都合でした。
美里班でチラシを撒いて事前説明会を開いたところ、0歳児の赤ちゃんを抱いたママさんまで来てくれて「ここに母親の要求がある」と確信したことでもありました。
月1回の英語小組は好評で、その後私がECCジュニアを自宅で始めた後まで続きました。(続く)

(元ブログ http://asukenoobasann.com/archives/20220330-1.html)

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