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足助のおばさんと教育 36

算数教室のころ

昨日、大分の教員採用汚職について少し触れましたが、私も教員養成系の大学を卒業しておりますので、全く他人事ではありません。私たちが実際に採用試験を受ける前に、担当の教官から「議員に知り合いがいるなら、挨拶くらいはしておいた方がいい」とこの耳でしっかと聞きました。まあ、私も学生の頃から共産党の活動をしておりますので、ある意味「議員の知り合い」はありましたが、教官のいう意味とは異なることくらいは当時の私でも理解していました。
しかし、本当の意味で当時の町会議員の村瀬志げ子さんには大変にお世話になりました。
私は、正規の採用じゃなくても、臨時の採用があるだろうと考えて少しも落ち込むことなく卒業したのですが、臨時の仕事の内示があると言われる4月3日になっても、電話のベルは鳴りませんでした。5日6日といたずらに日が過ぎて、家にいることさえ世間の目が気になるようになって、ようやく私は村瀬議員に相談してみよう、という気持ちになりました。
村瀬さんはすぐに、個人経営としては大きな稲木塾の講師の職を紹介してくれたのですが、その塾長の稲木先生を介して、私は新婦人の会が運営する算数教室小組(こぐみ)というものに出会います。「小組」というのは、全国組織であるところの新婦人が、各県委員会→支部委員会→班→小組という、新しい組織運営として発足したばかりの存在でした。今思うと、暗中模索の時期だったとも言えると思います。そこで「水道方式」という算数教授法の革新的な手法を用いて、会員の要求に応えて算数教室を受け持つことになったのです。
あくまで塾とは異なる小組ですから、会員であるお母さんたちの存在は大きいわけです。最大4ヶ所で小1から小6までの子どもたちを教えていましたが、どこでもお母さんたちは熱心でした。ある教室では、私が 移動のために食事の時間が取れない(そのくらい繁盛してました)ので、交替で軽食を準備してもらいました。1番大きなところでは遠足に行ったり、1泊でキャンプをしたり、それはもう一人で学校一つ仕切ってたようなものです。
当時の活動が「女性のひろば」という共産党の発行している女性向け雑誌に掲載されたことがありました。記者さんはひたすら驚いていました。
採用試験には受からないが、(4回落ちてます)、決して私に実力がないせいではないぞ、と、むしろ、学校にいるだけが教師の仕事じゃないぞ、と、過去最高に輝いていた時期だったと、今は思ってます。(2008年7月19日 記)

(元ブログ 算数教室のころ: Here Come the 足助のおばさん (asukenoobasann.com)

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