でもサムシング

小学校6年生の時に担任だった先生が、今は都内で食堂を営んでいて、たまに昔の仲間で集まる時にそこに行ってメシを食ったりしている。

茄子と豚肉の味噌だれ炒め、唐揚げ、チャーハン、五目焼きそば、何故かメニューにあるカレー。みんなで分けっこして食べて、食後のタバコをふかそうと外に出ると、同様にタバコを吸って一休みしている先生がいた。

自分たちの担任を受け持っていたのはおそらく30歳くらいの頃で、先生が結婚したのは35歳だったそうだ。そして今先生は50歳になっていた。その教え子である自分は今年で32歳になる。先生は20年前の教え子に言う。

「家に帰って誰かいるってのは嬉しいもんよ」

久しぶりの友達と会って話すのはやっぱり誰かが結婚したとか、誰かが子供生まれたとか、誰の親が亡くなったとか、誰がどこに引っ越したとか、そういう話になるものだ。

そんな休日を過ごした日の前日。打って変わってよく会う男友達と3人でドライブに出かけた。といっても行き先は都内の美術館で「池袋から私鉄乗ってからバスはちょっと面倒だな」と思って車を出してもらったのだ。

メンバーは漏れなく全員独身で彼女もいない。車中では街の景色を眺めながら「次引っ越すならどこがいいか」とか、「どこでどう暮せばコスパがいい」とかそんな話。

休日に会った2組のグループの話題はどちらも親しい友人だが強いコントラストがついていた。でもこの2つの連続した休日を対比させることに意味なんてない。意味はないが、並んだなあと感じている。そこから生まれる気づきもなければ、変化もない。会話の差異も、年齢の重なりも、本当は関係はないはず。

並んだ事柄への叙情を語る必要性はなく、ただ並んだということを自宅で自分だけが俯瞰で、ひとりぼっちの丘の上から「認識した」という事だけが在る。自分が何と何を仕分けて線で囲ってまとめて眺めたか、そこに何を感じ取っていたのか、それを言葉にして誰かに伝える必要があるのか。正解は分からないけれど、括られたそれらは当人の中でのみ生じたサムシング、サムシングエルスなのだ。


昔聞いていたSuiseiNoboAzというバンドの「水星より愛を込めて」という曲を思い出す。「メッセ〜ジは特にな〜い」って歌う曲だ。聞くたび「ないんだ…」って思う。せっかく水星からなのに。まあいいかとも思う。
「ない」ということは伝えたいんだろうな。

端くれも端くれだけど、曲とか作ったりたまにラップしたり、何かを作る身としてそこに意味とかメッセージを付与するのが苦手だ。でもSuiseiNoboAzを聴くとその辺ほっとする。

作れたから作っただけじゃん。な?
別に伝えたいこととか感じてることとかないけど自分の中のサムシングを抽出したって、いいじゃんな?


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