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渡る中国にも鬼はなし(61/67)

 第6章 中国第5日目 昆明 
喝采


 やがてショーも終わり、私たちも料理を食べ終わり引き上げようとしました。行きもそうでしたが、帰りも車イスには簡単に通れそうもありません。もっとも、かなりの観客が帰っていましたので、空いた椅子を動かして出口付近にまで来ました。

 運悪く、最後の所に横1列に食卓が4つ並んでいて、いずれの食卓にも人がいます。右の2つの食卓は北米かヨーロッパのツアー客のようです。一方の2つの食卓は現地の人のようです。私は中国語が分かりませんでしたが、英語ならなんとか言えましたので、その右の方の食卓の横をすり抜ける際に「EXCUSE ME」と言えば、簡単であろうと思いましたので、車イスを押してもらっている人にそう言ったのですが、いかなる理由か、現地の人がいる食卓の方に進みます。その組の食卓の1人がまじまじと私を見つめました。その人はたぶん私を見たというより、車イスを見たのでしょう。
 その人は、小さな声で遠慮がちにこう聞きました。

日本から?
ええ……」

 彼らも日本から来た観光客だったのです。
その食卓に座っている人たちは7、8人いたでしょうか、しばらく間が空いて、その人たちが全員私に拍手をしてくれたのです。
 
 日本から4千キロ離れた昆明に――車イスで――という拍手であったのだと思います。当の本人はみんなの力を借りて、飛行機とバス、電車、車で1歩も歩くことなく、ここまで来ただけでしたが、見る側にはまた別の感銘を与えたのでしょう。
 そのとき私の脳裏にはまた違った情景が浮かんできたのです。

病名は脊髄性進行性筋萎縮症です
進行性ですか? 進行性なのですね…」

 今から15年前、京都大学付属病院の狭い病室で若いインターンから初めて病名を明かされてからのいろいろなでき事――。会社を出ると明け方まで遊び回った時期、やがて逃げるように会社を退職し、2年にも渡って1歩も外に出ず家に引きこもっていたこと、深い深い絶望感で、日に日に悪くなっていくこの体と一生つきあうことの意味が分からなくなり、もはや何の希望もなく、肩で息をしていたことを――。

 日本から昆明までの遠い距離よりももっと遠い心の旅をしてやっと今の自分があることを思う時、日本からこの昆明まで来るのに1通のパスポートが要りましたが、中途で障害を持った私が、希望を持って生きられるようになるまで何通のパスポートが必要だったか……。その日本人観光客の横をすり抜けたのはほんの一瞬のことでしたが、私は15年の障害の歴史をその瞬間にすり抜けたのです。

 彼らが送ってくれた拍手は単に日本から昆明まで車イスで来たことに対する拍手ではなく、進行性という日に日に悪化するこの体で、前向きに生きる私に対して拍手してくれたのかも知れません。私はそのときも、
人の善意に会うために中国に来たのだ
と思いました。

 気が付くと、もはや両腕は自分の力では上に上げることが難しくなりましたが、いつの間にか私の周りには、心の優しい人が集まるようになりました。本当に心の優しい人が集まるようになりました。この旅行においてもそのことは起こりました。個人のお名前は書くことでもありませんので、これ以上触れませんが、そのこともまた不思議な事だと思います。

渡る中国にも鬼はなし(62/67)


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