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変換人と遊び人(22)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く⑤
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

さて、ヌーソロジーが私にもたらしてくれた「目からウロコ」感の詳細を続けよう。

ボーム暗在系(または内在秩序/内蔵秩序=implicate order)「死」をも内包・内蔵(implicate)するというより、むしろ「死」そのものを表す概念だろうと90年代は大雑把に捉えていた。そんな私がそれから四半世紀を経てヌーソロジーに接することができたのも、また本格的にヌースに向かう前から「奥行き=暗在系=死」に違いないとアタリをつけられたのも川瀬統心さん『ワンネス』のおかげであることは前稿に記したとおり。というわけで我がフォーカスポイント((20)参照)は最初から、それまでずっと念頭にあった問い「死とはなにか」の答に直結する筈の要素、すなわち「奥行き」にほかならなかった。

ヌースな日々(笑)を過ごし始めてほどなく、「奥行き」を鮮明に描像するには「四次元空間認識」が欠かせないという、きわめて重要なことがわかった。その時点で、「奥行き」「四次元空間認識」は私の中で有機的に結合したのだ。この最初の基盤有機体は続いて必然的かつ自然に「無限遠点」及び「純粋持続」との結合をはたし、さらには「自己と他者」「観察子構造」「双対性」「主客一致」をはじめとするヌース理解に不可欠な概念との結合を次々にもたらしてくれた。これらに続く新たな有機結合はいまなお進行中であり今後も続いていくに違いないが、知識の獲得が目的になりがちな「お勉強」スタンスでヌースに向かっていれば、こうした有機結合感覚は得られなかっただろうと思う。

そんなヌース理解プロセス途上のある日、「幅」「奥行き」の射影であるというイメージを描こうとしていた私のアタマに突如、こんな思いが浮かんだ。

――あー、そっか!だから「生」は「死」の射影なんだっ!

「死」こそが「生」の源泉であり、「生」「死」に支えられている、という重大なことに気がついたこの瞬間、目からウロコが落ちた。魂が震えるほどの衝撃だった。「目からウロコが落ちる」という表現は日本語の俗諺のように聞こえるが、じつはそうではなく、由来はあくまで新約聖書の『使徒行伝(使徒言行録)』にあるパウロの回心を記した箇所だ。幸か不幸か、これまで宗教的信仰とほとんど無縁で過ごしてきた私はもちろんパウロのように回心したのではなく、この日を機にただひたすら、意識の本拠を「死」の側、つまり「奥行き」に移行してそこに据えることにしたのである。しかしそんな意識的営為は、これまで人間型ゲシュタルトを基盤に日々を過ごしてきた私たちに求められる、それこそ真の回心かもしれない。あるいはハイデガー的表現を真似て、本来的回心と呼んでもいいだろう(だからといって、パウロの回心が非本来的だというつもりはないw)。

ハイデガーといえば、先般のヌーソロジーサロンではその存在論を題材に、ことのほか意義深い半田ゼミが行われた。じつに示唆に富む内容だったので多くのみなさんはお腹いっぱいになっただろうが、私もそのひとり。ここで話はそれるが、同ゼミでも取り上げられていた仰々しい印象のハイデガー用語「死の先駆的覚悟性(翻訳によっては、死の先駆的決意性/死の先駆的了解などとも)について、ひと言しておきたい。じつは上述の「目からウロコ」感を経て本来的回心(笑)に専念しているうちに、私はこの語に違和感を覚えるようになったのである。簡単にいえば、たいへん失礼ながら、

――あれ?もしかしてハイデガーの中では、どこにも存在しない「死」と、事象としての「死ぬこと」が一緒くたにされているんじゃね?

という具合になるだろうか。要は、この「死の先駆的覚悟性」における「死」は実際には「死」そのものではなく、あくまで現存在つまり人間が)死ぬこと」を意味しているよね、ということ。「先駆的(独語のvorlaufende)」は文字どおり「~に先駆けて」の意で、「前もって(あらかじめ)」というニュアンスをもつ。しかも「覚悟」に紐づけられている以上、この語が意味するところは「現存在(=人間)は必ず“死ぬ”ということを、実際に“死ぬ”前に(生きている間に)あらかじめよーく覚悟(了解)しておくこと」だろう。あるいはさらにハイデガーの意を汲んで、「人間が“死ぬこと”から逃れられないことを前もって強く認識し、目をそむけずにそれを受け容れること」と理解できるかもしれない。しかしいずれにしても、「死」そのものに関してなにかを示しているわけじゃないよな~という違和感は残る。

「ズブの素人による、じつに浅はかでパラノイア的な感想だな!」と専門家スジから指摘されてもおかしくない(たしかにパラノ的かもw)。だが、「存在」「存在者」を異なるものと捉えたうえで、どこにも存在しない「存在」と実際に存在する事物としての「存在者」との関係を明らかにするのが存在論だとすれば、「死」「死ぬこと」の間には、それこそ存在論的差異が厳然としてあるのでは?という気がして仕方がないのだ。

上に述べたような思いは、繰り返しになるが、「目からウロコ」感を機に取り組んだ意識の本拠を「死」の側(奥行き)に据えるという意識的営為を経て湧いてきたもの。じつはこの営為は、当初は予想もしなかったことだが、なんと、「死」はいつも一緒に手を繋いで支えてくれているという感覚をもたらしてくれたうえに、「死」「死ぬこと」はけっしてイコールではないという明瞭な認識に導いてもくれた。いま記した「死」が手を繋いでくれている感に基づけば、つねに一緒である以上、先駆けも後追いもないことは言わずもがな。まして、手を繋いで支えてくれるパートナーを畏怖するなど、もってのほかだろう。そして「死」が畏怖の対象でなくなれば、その射影的事象である「死ぬこと」が恐いものではなくなるのは当然だ。じじつ私の中で「死ぬこと」はいまや、いったん外部に延伸・展開されてモノの長さを測った巻き尺がその後巻き取られて再び本体内部に戻るようなイメージの原点回帰、いや、「遠きにありて思ふもの」だった懐かしい故郷に実際に戻る故郷回帰の旅の第一歩にほかならないのだ。

クドクドと述べてしまったが、以上はヌーソロジーがもたらしてくれた「目からウロコ」感とそれに基づく意識的営為を経て得るに至った我が認識の詳細である。なかでもとくに、「死」が手を繋いで支えてくれている感をまざまざと覚えた際は、これはもしかすると「生きながらにして死後の世界に入る」というオコツトのメッセージ((18)参照)をそのまんま体験したってことかしらん?(笑)と思うほどリアルなものだったので、少なくとも私にとってヌーソロジーの最大の魅力はいまのところ、そんな「半死半生」性であり、「半死半生のコスモロジー」的側面なのである。(19)では「おおー、もしかすると、これが意識進化ということ?」と思うほど意識が「ひっくり返った」、あるいは「底なしの安堵/果てしなき安心」に繋がったなど、大言壮語と受けとられかねないことを述べたけれど、すべて上述の意識的営為に基づく心の底からの感慨である。

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