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いのちの儚さ、そしていのちの尊さ 1

わたしの父は、とても器用で木工作品を作ったりしてはマルシェを出店したり、とてもアウトドアでしたから、小さい頃からキャンプによく行ったり、友人の別荘ログハウス作りに家族で毎週行ったりと、自然がとても身近にある暮らしをしていた。その反面、厳しい環境のなか育てられた父でしたから、私たちが自立できるように子育てをし、家族を守るために一生懸命働いてくれた。
父の夢は、みんなでログハウスを建てること、古民家を改装して工房を作ることだった。
しかし、2019年9月末頃に、
父の病気が発覚した。それも、肝内胆管がんという難しい場所にできた。そして、10月4日に手術が決まった。
以前から、父と古民家の物件を探していた。

ここで少しだけ私の話。
わたしは、いつかカフェをopenする夢があった。そして、その夢に向かってそろそろ歩み出そうと思い、5年間務めた会社を退職した。退職が決まったあとで、父の病気がわかり、そして私はいつか父とコラボ出来たらなぁと思っていた。それは父も同じ気持ちでいてくれた。

すると、10月2日入院する直前に、とても良い物件を見つけた。父は悩んでいたが、わたしはこれが、流れだと思っていたので、見学にいこう!と。そして10月4日、手術の前日に見学をさせてもらうことにした。足を運ぶと、やはりとても良い景色で、五感が働く場所だと感じた。
そして、そして、父と私は決めた。
購入します!と。
父の病気はわかっていたが、わたしは父の古民家再生とゆう夢を実現できる場を作りたいと、楽しむ場を作りたいとその一心で購入する決意をした。その先に、わたしの夢があったらそれでいいと思っていた。


手術は、5.6時間といわれていたが、
9時間にも及んだ。ステージ2といわれていたが、身体をあけてみると、リンパまでいっていた。この時点でステージ4になる。リンパまでいっていると、普通は手術はしないそうだ。だけど、先生はとれるだけの腫瘍はとってくれた。無事に父の姿をみると、安心して涙が止まらなかった。よく、よく、本当に頑張ったね。って。そして、その後5日ほどで退院をした。

そして古民家を購入したのは、11月だった。その後、何度か古民家に通っては、いろいろ手探りで作業をする日々。
友人を呼んで、招いたり、そして大きな大きな倉庫を動かしたり。ただ、その中で、確実に父の病状が悪化していたことは今になってよくわかる。
そして、抗がん剤治療をしながら、手術後の傷口の痛みや、肩の痛みと戦っていた。そして、2月に腫瘍の転移が確認された。
それでも父は、抗がん剤治療や、放射線治療に向き合い、必死に頑張ってくれました。放射線治療は本当に痛そうで、見ているのが辛いけれど、何か力になれることはないかとずっとずっと側でさすっていた。絶対お父さんいないとあかんからな!って何回も言ったよね。でも父は母のことをいちばん気にかけてたよね。それは絶対大丈夫だよ、わたしが支えるよって。でもどんな時でも、絶対に諦めたくなかった。でも後になっていろいろと感じる。
寝れない日々も続くなかで、毎朝どうやった?寝れた?と私たちが心配する姿に、嘘でもうん、寝れたと言ってくれてたよね。気を遣わせて本当ごめんね。
食べれるものも限られてきて、それでもパワーを自分でつけようと、頑張って食べたよね。カレーなら食べれるかもって。アイスクリーム作ったら、ちゃんとそれを食べてくれたよね。朝は母が作るスムーズを嫌がりながらもちゃんと飲んだよね。
毎日の日課、夜はお父さんの肩揉み。でも本当に毎日心配で、どうにかパワーを与えたくて、わたしも必死の日々だった。しんどいって思ったことなんて本当1日もないんよ。

そして急変したのは4回目の抗がん剤が終わった後。むくみがひどくなり、飲み薬の痛み止めが効かなくなってきて、寝れなくなってきた。そしてお腹の下部が急にむくみ出し、病院に走った。その時は、もう少し様子みましょう、と。他は問題ない、と。ただ、何か急変があれば必ず病院に来てください、と。
そしてその2.3日後の日曜日、母がいつものように仕事から帰り、14時頃にお昼ごはんを食べていた。食べ終わった後、父がもうあかんと…
そして病院に走った。救急で診てもらった。
父は、母がちゃんとゆっくりできたのをみて、もうだめだといった。午前中はわたしもいたのに。(お菓子作りをしていた)だからかな。本当に母想いの我慢強い父だと感じた。

そして5月30日入院をした。
またお家に帰って来れることを信じて...


           続