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「場所にも恋をするのだ」を教えてくれた場所

この文章は、panasonicとnoteで開催する「 #どこでも住めるとしたら 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

20代「ヤドカリのように住処を変えながら生きる」は私にとってどうやら生まれながらに染みついた性質のようで、なんなら過去の人生どこかで本当にヤドカリ生だった事があるんじゃないか、と疑いたくなるほど自然な事だった。
 
ヤドカリが自分の体の大きさに合わせて住まいを変えるように、年齢やその時の気持ち、欲しい環境に合わせ柔軟に住む場所を変える。
 
海の側や気に入った国、田舎から都会まで、それはもう短期間で何度も何度も引っ越しを繰り返した。
物件も、いつでも旅立てるよう基本はシェアハウスかホテル暮らし。2年縛りのある賃貸は悪魔の契約のように見えひたすらに避けていた。
 
その様子を「いつまでもフラフラしていて、心配ね」と見る人もいたし「自由で良いわね20代は」と呆れながら肯定してくれる人もいた。「結婚してないからできるのよね」と言う人もいた。

そのどの意見にも特に肯定も否定もできず、自分の家にいてもいつもどこかお邪魔している感覚が抜けず。だけれどプラスでずっとここに居続けるイメージがついた事も一度もなかったから、家を整えることもせず、本当にただわたしはそこに「居る」だけだった。
 
気持ちに合わせて服や化粧を変えるように、住処を変える事。
特定の住居は構えず、荷物は最小限で。キャリーケースに収まる分だけの荷物で、世界中を鳥のように飛び回る。
それが今世、自分がしあわせに暮らしていく唯一の方法だと思っていた。

だから私が今、岡山県の海沿いの街にほぼ定住していることを、昔からの友達はみんな驚く。もちろん旅にはこれからも出ると思うし、仕事柄出張も多いのだけれど。基本的にわたしはここに普通の物件と同じく2年縛りで家を借り、お気に入りの机や椅子を揃え、料理をし、掃除をし、暮らしている。

私に「人間、場所にも恋をする」という新事実を教えてくれたのはこの地球に3箇所あって、インドのリシケシュ、タイのチェンマイ、そしてここ岡山県の港町だ。

そう、人間は場所にも恋をするのだ。

この場所を「住んでいるうちに好きなった」という感覚はあまりなくて、最初から150%、ドンピシャでホールインラブだった。
 
ああ好きだなあと毎日思うし、窓から景色を眺めているだけで脳みそからじんわりセロトニンやオキシトシンがどばどば出ているのを肌で感じる。 
きっと3ヶ月、半年、どこへ行かずともわたしは違和感を感じることなく、ここできちんと手触りのある生活を送れる自信がある。

 そのくらい、この場所たちは私のヤドカリ生活にしっかりとピリオドを打ち込んでくれた。
 

この場所や上にあげたインドのリシケシュ、タイのチェンマイは偶然見つけたわけではなく「絶対ここは私が気に入るであろう」と最初から確信を持って訪れている。
 
それは、どこか出かけたときに感じた「なんか好き」や「なんか嫌」を言語化したメモをもとに、選んだ場所だからだ。
 
自分の中にある言葉にならない自然な感覚は、大体間違わない。人であれ物であれ場所であれ、なんか好きなものはとても好きになれるし、なんか嫌なものは、そうでない場合が多い。
 
例えばわたしの場合、べったりとしたコミュニケーションがあまり得意ではない。誰かといるよりも1人でいる方が好きだし、大勢の飲み会や、知人だけがぎゅっと集まるイベントも、時に足を運ぶのが億劫になってしまう。
 
そこを考えると濃密なコミュニケーションを得意とする田舎町は少し心地悪さを感じるし、逃げ場がなくなりがちな、島暮らしもむずかしい。
 
地形は坂が多いところより平坦な盆地が好ましい。
谷や山や海から吹いてくる新鮮な風の中、歩くのも好きだ。
寒いのは生活リズムが狂いがちで心地よくないので、なるべく暖かな場所が良い。 
そんな風に、好きにも嫌にもそれぞれ理由を添えてリスト化していたら、気づけば自分の肌にぴったりと馴染む場所を見つけることができた。

言語化はむずかしい。自分とじっくり対話をする必要があるし、正解も間違いも持っているのは自分だけ。でもそこをサボると人生は、望んでいない方向にいとも簡単に舵を持って行かれてしまう。
だからこそ、何度も方角を確認しながら、自分の心が今求めている場所はどこなのか、ゆっくり慎重に、聞いてあげる必要があるのだと思う。

今後わたしは、この恋した場所たちでの多拠点生活を考えている。
(この広い地球にはもっと他にも、恋ができる場所があるかもしれない。だけれどそこまで長くない私の人生、3箇所くらいがちょうど良いのだと思っている)

それぞれの場所に、わたしは仮住まいではなく本住まいだと思える場所を作りたいのだ。
 
「そんなのどうやるの?」と友人に聞かれる。
その度に「わからない」と答えて笑う。

もしかしたら不可能かもしれない。
でも、可能かもしれない。

「こう住みたい」「こう生きたい」と真剣に考えることは自分のお守りを作る行為だと思う。
 
例えそれが夢物語に終わったとしてもその場所は、確かに地球に存在している。
 
そこでは今日も海が凪いでいて。
誰かがうーんと背伸びしたり、誰かと店先でお喋りしたり。
そんな様子を頭で思い浮かべるだけで心がすっと自由になって、元気になれたりする。
 
心から住みたい場所がある。
心から愛している場所がある。
 
自分がまたいつか、手を繋ぎたい場所が心の内にあることは、健やかな日々を手にいれるために、必要なことなのだとわたしは思っている。

「 #どこでも住めるとしたら 」をじっくりと自分と向き合いながら考えてみること。それはつまり、今の自分を、そして今の生活を再び愛し、見つめ直す行為なのだと思う。

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