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これはあくまでも現時点での個人的な希望に基づいた、理想図であり全てが一概にそうでは無いと言う前提で書く。前置きに関してはただの一個人の感想であろうとどんな横槍が刺されるかもわからない。
そして「この記事」を書いた今現在の私に対しての言い訳としても後に有効になるだろうと言う魂胆だ。

唐突に訪れる希死念慮
それは脳のどの部分か、または心臓の左心房か右心房か つまり私の身のうちから湧き出る。
絶望や自棄と言えば簡単に済ませられる一過性の迷い

そんなやるせ無い思いをどう片付けるかと言えば、
絶望に対しての希望を如何に見出すかだ。

私は少なく見積もっても2.30年は生きることになる。
人生の折り返し地点だ。日本やオーストラリアの平均寿命は80と言われているのでその2/3くらいだと思っている。

正直、いまこの自分が更に何かを成し遂げるとは思えない部分もある。成人病やその他の未病で苦しみながら死んでいくのはごめんだ。だからといって全うしていける気もあまりない。
不満があるわけじゃない。たいそうな希望もない。
それなりに何処かで何かの役にたつことができていれば良いが、自分の差金では測ることのできない大木の樹皮であり、打っては返す波に削られた底の岩だ。

あと20年、30年もすれば安楽死を認める社会制度ができればいいと思う。
オランダやスイスやニュージーランド等、調べた限り、条件までは調べきれていないが安楽死を認めている社会もあるようだ。
世界の人口はどんどん増えてる。
命一つを蔑ろにする訳では無いが、人が自らの希望で死を選ぶことはハードルを飛び越えるというより暖簾を潜るようにできる方がいいんだと思う。

例えば
自身はこれ以上に社会参画や自立が難しいといった場合。
年齢制限をさずけ、相対するパートナーが居ないもの。
または身寄りのないもの。安直すぎるかもしれないが
免許返納くらいの意識で良いのではないかと思う。
これを書きながら調べてみたが

「レーウワーデン安楽死容認四要件」というのがあるらしい。
1、患者は、不治の病に罹っている。
2、耐えられない苦痛に苦しんでいる。
3、自分の生命を終焉させてほしいと要請している。
4、患者を担当していた医師あるいはその医師と相談した他の医師が患者の生命を終焉させる。
上記四項が条件とのことだ。
条件付けというのもナンセンスな事だが頭のいい人が考えることは理解できる。解釈は広くとれるようになっているんだな。

解釈といえば当てる字は違うが、介錯という言葉もある。
古い日本では切腹などのときに即死できずに苦しむ者の首を落とす事を指すみたいだ。
これは痛みが伴うものであり、責任を負うものでもあるから安楽とは言えないにしろ、醜態を晒すことのないように配慮があったみたいだ。

話はだいぶずれてしまったが、安楽死いつか日本でも認められる事がくるのだろうか。そんな事を考えているうちに風呂に入ってスッキリしようと思った。

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