読書感想 町田康『告白』(2022年12月5日ごろの記)

 いつかネットに上げようと思ってどこにも出してないままの読書感想メモが見つかったので。


凄い。全編に渡って思考と言葉との齟齬の話をしている。心のうちを直線的に言語化できないが故に社会から外れてしまっている、しかし思考と言葉が一致して社会に放たれた暁には己は破滅してしまう、そんなジレンマを抱えた人間が混沌の生涯を駆け抜けてゆく800ページ超に、全く飽きることがなかった。自身の言語化能力の手に余る自我を抱えていては生きていけない世の中というのは、まさに今現代のことだと思う。そんな自我を背負い込んでいること自体が己の錯覚という場合もあるけれど。この命題をまさに言葉によって書ききった作者は立派だ。

告白 nonononounouさんの感想 - 読書メーター (bookmeter.com)

↑読書メーターに書いた感想。これだけじゃ書き足りなかったので以下思ったことをまとめた。


 近年、「言語化」というフレーズをよく見る気がする。noteやTwitterで、書き手の複雑な感覚や感情を、その書き手独自の的確な言葉選びで綴った名文が投稿され、それが多くの人に評価される時、「言語化」という言葉を使った反応が目に付く。「自分も似たような感覚を持っているが、それを言語化できて凄い」というように。


 この小説はまさに「言語化」の話だ。主人公の熊太郎は自分の心の内を言語化することができない。あれやこれやと複雑な事を考えているのだけれど、それを外部に表現するだけの語彙を持ち合わせていない。そのため、彼が発する言葉やとる行動はトンチンカンなものとなり、周囲からは距離をとられる。だから熊太郎は社会に居場所がない。

 しかし一方で、彼が自分の感情を直線的に言葉にすることができる瞬間もある。ただしそれは彼が暴力を振るうときなのである。彼が怒りに耐えかね、勢いにまかせて言葉を放ちながら暴れ狂うとき、彼の考えと言語はたしかに一致している。ところがもしそんな時が訪れたら、彼は人に危害を加えたり、抱えている秘密をぶちまけたりしてしまい、その結果捕らえられ、罰せられ、社会から追放されてしまう。すなわち破滅である。

 このように、「思考を言語化できないために社会から外れてしまっている」「しかし、思考と言語が一致したときには社会的に破滅してしまう」という、どうしようもないジレンマを抱えたのが熊太郎という主人公なのだ。


 この熊太郎の悩みは、現代の我々にも通ずる。というより、むしろインターネットが発達した現代においてこそ、わかりやすく共感できる問題だと思う。

 先に挙げたような、独自の感覚を「上手く言語化された」文章がネット上に投稿され、「よく言語化できている」と称賛されるというのは、裏を返せば、そのような感覚を持ちながらも言語化することができなかった人が一定数いるということだ。複雑な心の内を持ちながらも、それを手持ちの言葉では周囲の人やネット上に表現することができず、モヤモヤしている、苦しんでいる、あるいは破滅していった、一定数の人がいるはずなのだ。少なくとも自分は、「上手く言語化された」文章を目にすると、その裏にいるそういった言語化できなかった人の存在を想像してしまうし、自分がその一人であるときもあったように思う。

 その一方で、思ったことをそのまま言語化しても破滅に至ることがあるのも、もちろん今の世の中で多く目にする。自分の独自固有の価値観を不特定多数の人に伝えるとき、あるいは謝罪や釈明をしなければならない局面に立たされたとき、とかくストレートに言葉を発すればするほど、人の激烈な反感を買ったり、至らなさを露呈してしまったり、想定していたリスク以上の炎上や不信に繋がってしまう。

 よく、至らない謝罪文などを指して「心が込もっていない」などと非難する人がいるが、それは逆で、「心しか込もっていない」から至らない文になっているのだと思う。本来必要な、複雑な事象を説明するための語彙力や、余計な情報を入れないための第三者の添削など、本当に思っていること以外のことが込められていない、思考を直線的に言語化しただけの表現は、時として社会からの疎外を招く。


 このように我々にとっても身近な、熊太郎の「言語化できなさ」や「言語化の失敗」が繰り返し描かれ、主題となっているのが『告白』という長い長い小説である。

 すなわち、言語化できないということを言語化した小説ということになる。これは当然矛盾を孕んでいる。

 語弊があるかもしれないが、この小説はある大きなウソをついていると思う。いうなれば小説のウソ。それはどういうことかというと、熊太郎の言語化される以前の内面を“思弁”と称して地の文で言語にしているところだ。

 言語化能力の高い低いに関わらず、すべての人は、言語という形では思考していないと思う。
 しかし、熊太郎の考えを読者に伝えるためには、言語に置き換えるしかない。
 そういった反則を犯しながらもこの作品がこの世に生まれたことで、熊太郎の陰にいる、思考が言葉にすらならないまま破滅していった、あるいは言語化前の思考を爆弾のように抱えたまま彷徨っている何万人もの孤独な人間たちに、読者は想像力の光を照射できるかもしれない。


【蛇足】

 敵キャラクターに口癖が「正味」(「正味の話、どういうことなん?」の正味)の”正味の節ちゃん”なる人物がいるも絶妙だと思った。短絡的な言葉による明快な説明を求める態度は、熊太郎の複雑な思弁癖と相容れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?