でべでべのこと
小さい頃からずっと運動神経が悪く、走るのも遅い。
高校生のころ、体育の授業のカリキュラムで「全体行動」(「集団行動」だったかも)という種目があった。
1クラスの男子なら男子・女子なら女子全員で、号令に従って色んな向きで前ならえをしたり隊列を変えたりする、一種のマスゲームだ。どれだけテキパキと揃った動きができているかが体育教師によってジャッジされ、合格が出るまで何度も続けさせられる。
毎年度最初のカリキュラムになっており、クラスの団結力を強めたり統制がとれるようにする狙いがあるのだろう。もちろん皆めんどくさがっていたが、僕がクラスで一番これを嫌っていた自信がある。
「全体行動」は、まず指定位置から50Mほど離れたところに全員待機し、そこから指定位置までダッシュで集合し、ぴったり整列するところから始まる。僕はこの最初の「集合」が何よりイヤだった。
単純に、足が遅すぎるのだ。
今検索したら、高校生男子の50M走平均タイムは7秒31らしい。僕は10秒前後だった。だから、僕だけどうしても約3秒分、指定位置に遅れて到着してしまう。「集合」は全員が全力でダッシュすることになっているから、僕だって死ぬ気で走っているんだけど、他の全員の「全力」が、僕の遙か遠くを走っているのを見せつけられるのだ。悔しいし恥ずかしかった。
いがらしみきおの漫画『ぼのぼの』で、ノロマな主人公の”ぼのぼの”が走るとき「でべでべ」という擬音がつく。僕はこの「でべでべ」という音にとても親近感を覚える。「集合」しているとき、僕にだけいがらしみきおの「でべでべ」という描き文字が付いているようだった。
もちろん、体育教師も生徒の体力差は分かっているだろうから、僕が本気でやっていることも分かってくれていただろうし、僕の「集合」の遅れは判定に含まれていなかったと思う。それに、幸いかなり温厚な生徒の集まる学校だったので、クラスメイトから文句を言われたりからかわれたりすることもなかった。
しかし、僕だけ自分の「でべでべ」を認識させられて自尊心をすり減らすところから「全体行動」が始まるので、その後の前ならえとか隊列移動とかも、頑張りはするけど、暗い気持ちを引きずったままやらなければならなかった。
もし体育教師が全く理解のない人で、「おい、○○!お前だけ遅れてるぞ!やる気あるのか!」なんてことを言う人だったら、個人の実力差を考慮しないその教師に怒りを覚えただろう。あるいは、もし他のクラスメイトから嫌なことを言われていたら、深く傷ついて疎外感を覚えていただろう。そのどちらの目にも遭わなかったのは、たしかに恵まれたことだと思う。けど、ただただ自分の能力の低さだけが自分を傷つけていると言う状況も、遣り場のない苦しさがあった。別に誰に嫌がらせを受けているわけでもなく、ただ自分がノロマであることによって嫌な思いになっている。
しいて言うなら、「全体行動」という種目自体が、そういう体力の著しく低い生徒の存在を無視したものであり、僕はそこになら怒りを向けられる。
そもそも「全体行動」が持つ、文字通り全体主義的な感じや、体育教師の個人的なジャッジで可否がすべて決まる理不尽さは、僕も当然前提として嫌だった。でもそういう部分は、僕以外の生徒も、ある程度自我のある高校生として同様に嫌に感じていたと思う。僕の感じていた「全体行動」への嫌悪は、ほかのクラスメイトが感じて「だり~」と仲間内で愚痴りあっているそれと、根本的に次元の違う嫌悪だという思いがあった。
全員で動きを合わせる種目のことをみんな嫌だといいながら、みんな十分動きを合わせられてるじゃないか。塊になって同じスピードで走れているじゃないか。同じ能力を持って、同じ動きができているじゃないか。同じ事を嫌だと感じ、同じように愚痴を言えるじゃないか。何がそんなに嫌なんだ。どうせこれからもみんなは「全体行動」を上手くこなして、社会をうまく渡っていけるんだ。
・・・・・・と、そこまで当時本当に思っていたかはハッキリ憶えていないが、今の自分の中にどよんと残っている、”みんな”への一方的なやっかみ、”全体”や”集団”といったものへの嫌悪は、その「全体行動」がある程度育成してくれたような気がする。
漫画『ぼのぼの』の擬音はほかにも、独特のセンス溢れるユニークなものが多い。
足が遅いことを表す「でべでべ」に対し、足が速いキャラが走るようすには、「びゅーばす」という擬音がつく。
全体行動の集団がびゅーばす!と走って行く後ろ姿を、今も僕はいろんなところに見つけている。
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