百年の孤独、文化最果ての地より愛をこめて

「また、こんな難しそうな本を読んで。頭おかしいんじゃないの?」

 ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を初めて読んだのは高校生の時。図書館の薄暗い本棚の奥深くに眠っていた旧訳版を借りてきて受験勉強の合間に読んでいたところ、母親に見つかった。
 有名な一行目「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したにちがいない。」を見るなり母は冒頭の一言を述べた。
 あんたたちが勉強を頑張るせいで、私も田舎で目立って仕方がない。私は静かに暮らしたかったのに。お前のせいだ。
 そんなことを言っていた母親だったから、そんなことを言ったのかもしれないが、私にとってこの小説は衝撃で、リアリズム以外の何物でもなかった。その地域では、店先に塩を置いて客を呼ぶ「まじない」は普通に生き残っていたし、自分では決められないはずの寿命が尽きる日を上手いこと調整してちょうど良いタイミングで亡くなった老人に対し「彼であるなら、そんなことはできて当然だろう」と近所の人が言い合う世界だったから、本書の「魔術的」な部分は、「まぁ、そんなこともあるかもね」と思えてしまってならなかった。そしてそこに描かれている、人と共にいるはずなのにどこまでも根深い孤独が、まさにあまりにもリアルで、無理解と虚無感と嫉妬と悲しみが、胸をなんどもなんども突いた。

 父親は「マルケス」を「マルクス」と読み間違え、私が共産主義の本を読んでいると勘違いをし、文学部に行った妹は「ノーベル文学賞を受賞した本は政治のために受賞している気があるから評価しない」と言ってのけ読了を挫折し、映画館に行くには車で片道一時間以上、美術館などはないし、本屋に岩波文庫もz会の参考書も売ってなければ、CDショップにオリコン1位の洋楽すら売っていない文化最果ての地で、「百年の孤独」にむせび泣いた。

 時は流れてめでたく大学に合格し、ジュースを買うのもはばかられる小遣いを長々貯めて記念に好きなものでも買おうと思った結果、家族に全く理解されなかった元高校生は「百年の孤独」を単行本で買った。
 読むたびに「こんなに短かったっけか」と思いつつ、文庫版があればいいのに、と思っては、まぁ単行本だからこそ良い本もあるよな、なんて思ったりもした。
 ラテンアメリカ文学にドはまりし、バルガス・リョサやら、フアン・ルルフォやら、フエンテスやら、レイナルド・アレナスに手を出して、そしてやっぱりガブリエル・ガルシア=マルケスに戻ってきた。

 さらに時は流れて、ガブリエル・ガルシア=マルケスが認知症の疑いがある、とのニュースが来た。稀代のストーリーテラーが認知症というのも、やけに幻想文学的だとは思ったが、それでもやはりショックだった。元々新作を期待できる年齢ではないとは思ってはいた。

 そしてさらに時は流れて、ガブリエル・ガルシア=マルケスの訃報と、「百年の孤独」の訳者である鼓直の訃報が流れてきた。これもまた酷くショックだった。自分がスペイン語を読めないだけではなく、スペイン語圏の翻訳家はそもそも少ないのであるから、ラテンアメリカ文学それ自体の翻訳も大打撃になるのが目に見えていたからだ。

 
そして、さらにさらに時は流れて、もはや文化最果ての地には住んでいない時に、文庫化したら世界が終わるとまで言われた「百年の孤独」が文庫化した。
 
 発売日に、朝七時に開店する駅の本屋で探したが、一冊もなかった。
 それでもネットでは買いたくなくて、仕事帰りに本屋を巡って、平積みになっているのを買った。社会人になってから、小説というものを純粋に楽しめなくなっていたから、読めるかどうか心配だったが、そんなのは杞憂だった。

 たくさんの絶望と失望と孤独と恋を経験して、「百年の孤独」にむしろ昔よりもむせび泣いた。
 

 

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