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師匠がダークサイドに落っこちても

名作と呼ばれる物語の多くは
挫折している主人公だったり、
信頼していた存在からの裏切りを経験して、そこから立ち直るストーリーだ。

スターウォーズもそうだよね?
あんなに可愛かったアナキンが、ダースベーダーになっちゃうの。

支持していた存在(親や教師、師匠のような存在)が
闇落ちしていくのを見るのは誰しも辛いものがある。

それは、
その存在に育てられてきた部分が、自分の中にあるからだろう。

「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」
コリント人への第一の手紙9章27節

という言葉がある。
「失格者」というとちょっと大袈裟に聞こえるけど、最初の動機がどれほど純粋であっても
挫折を理由に闇落ちしていってしまう人=失格者と
考える自分の根底の思い込みに、ある時気づかされた。

愛に根差す動機

「あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。」
ヨハネの黙示録2章3,4節

人間の純粋な動機は、
大抵「愛」だ。

誰かのために命を燃やしたいとか、
楽しいことをして、人を喜ばせたいとか
感動を表現したいとか…。
(ここではそれが、無条件の愛か、自己愛かという話はしない。)

そういった純粋な動機を持って信念を伝えた人が、
自らを否定したり、自らが伝えていたそのものを否定するようになるのは
とても無責任なことだと思っていた。

師匠が闇落ちしちゃったら、
長年教わる立場できた人たちは、「どうせっちゅうねん」という思いにならざるを得ないから。

でも、誰しも人間だから
心が変わったり、燃え尽きたりすることはあるだろう。
人間はそんなに強くないのだ。

だからこそ、最初の動機を捨てる時には、
最初の愛、最初の確信から離れたかったら離れても良い。
ただ、人や周りを巻き込んじゃダメだ。
そう思っていたのだった。

そう考えるようになったのは、
クリスチャン3世として家庭を引っ張ってきたはずの父が、
40代の時にクリスチャンを迫害する茶番を演じ始めた過去に由来する。

それから15年ほど経った頃には、遅めに訪れた父の反抗期は落ち着きを取り戻し始めてはいたのだが。笑

当時小学生4年生だったわたしにとっては
一家の大黒柱であった父が、自ら入信に導いた母の信仰のあり方に躓いて
ダースベーダーになることは理解し難かったし、本気で家庭崩壊の危機だと感じ、父のことを無責任だと心底思っていた。

人間の成長物語におけるあるあるの型に
見事にハマり苦慮していた自分の人生を俯瞰できた時、
「自分の挫折に人を巻き込んではいけない」
ではなくて、
「人を巻き込む必要はない」と思えた。

自分の人生を長く不幸たらしめていた設定から解放されるのには20年近く
時間がかかったわけだけど、
この気づきのプロセスにおいて
わたしは、自分の信念と出会えた。

それは、「人のせいにしないで幸せを選ぶ。自分で選んで納得して生きる時、人は初めの愛から離れることはない」
という確信だった。

この信念が自分の中にあるからこそ、
「人のせい」にする生き方に
そんなはずじゃないだろ!と情熱が迸るのだと分かった。

でも、人は「誰かのせいにしたい生き物」なのだと思う。
そういう弱さを誰しも持っている。
わたしもそう。

それでいい。
かといって、誰かの「誰かのせい」にした人生に
巻き込まれないで生きることを選ぶこともできるということを、
体現してわたしは生きていく。

そして、他者を尊重できるようになる。
そう決めた。

2023.3.22より




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