『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』(河野裕/新潮文庫)を新たな気持ちで読み返して

 階段島シリーズの読み返しもようやく第三巻目まで来た。これでやっと、現状の最新刊『凶器は壊れた黒の叫び』を読むことが出来る。

 このシリーズは本文中の一節をタイトルにしているのだが、『凶器は壊れた黒の叫び』ってどんな文脈で使われているのか、とても気になる。

 『いなくなれ、群青』『その白さえ嘘だとしても』『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』は、パッと見ただけで何となく意味が分かるけど、『凶器は壊れた黒の叫び』ってなんだ?

 全く予想もつかないけど、不穏な空気だけは感じる……。

 本作を読んで、「五話、ハンカチ」のラスト、現実側の真辺と七草の二人の会話の場面が、作者も力を込めて書いたんだろうなと思ったし、読者の自分も力を込めて読まざるを得ない箇所だった。

 p320~の七草の切り出しとそれに対する真辺の解答は、捨てる前の真辺と七草であれば立場が逆だったんじゃないかと思う。

 現実側と階段島側のどちらが好きか、というのは意見が分かれるだろうし、そもそもこういった問自体がナンセンスなのかもしれないが、断然現実側の方が好きだなぁと思う。

 『いなくなれ、群青』を始めて読んだときは、とても「純文学っぽいなぁ」という感想を持った。

 「純文学」という定義(特に「大衆小説」との区別に関して)は正直よくわかっていないし、まともに調べたこともないのだが、個人的には「純文学とは、出来事よりも人の心情に重点を置き、娯楽よりも共感を得ることを目的としたもの」と考えている。後半については、あるいは「個別の事例を描きながら、普遍の共感を得ることが可能なもの」と言っても良いのかな、と思う。

 どうしても「純文学」を読んだ経験が「大衆小説」のそれよりも少ないので、「大衆小説」的ではないものを「純文学」と認識してしまう傾向にある。

 では、「大衆小説」的とは何か?ということになってしまうが、まあこれは娯楽性の大小によるのかなと思う。ミステリ・SF・恋愛・学園・スポーツ・軍事・時代等々のジャンル小説は軒並み「大衆小説」の枠にぶち込まれると思うが、共通しているのは、読んでいて娯楽的であるかどうかな気がする。

 それでもって、多くの「大衆小説」は、信じられないような事件や未知の謎、痴情のもつれ(言い方が悪い)、ライバルとの勝負、勝ち負け、蘊蓄などなどの出来事を中心に据えて、娯楽性を生み出しているように思える。

 ということで、僕にとっての「純文学」は上記の要素を引きぬいたもの、つまり、最初に言ったようなものになるわけである。

 そうした時に、『いなくなれ、群青』が結構、僕の眼には「純文学っぽく」映ったのだ。

 たしかに、ピストルスター

(ここまで書いた後、約1ヶ月の時間が経って、ここから先の続きを書く。)

なんかはミステリっぽい要素がある。
でも、あれもミステリかと言われるとうーん?って感じ。
強いていうなら、登場人物の行動や心情を謎のように解き明かすミステリってことなんだろうけど、それってミステリってより、純文学の領分では!?と思うのです。

捨てたものは何か?とか魔女とは何か?というのもミステリ的な謎なのかもしれないけど、あれを自分でも考えて答えを当ててみよう!って読者いるのかな?

少なくとも、新潮社が売り文句としている「心を穿つ、青春ミステリ」というのは少し違うような……という気が読む度にする。

でも、続刊の『凶器は壊れた黒の叫び』で、階段島を舞台にした連続殺人が起こって、「壊れた黒の叫び」っていうタイトルの彫刻かなんかが凶器になってました、というなら本当にこのシリーズはミステリなのかもしれない。

(おわり)

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