命と玉ねぎ
こんばんは、皆さん。お久しぶりです。少し前に拙コラム「不安な夜に」にて、一生懸命今を生きよう、頑張って働こう、とか威勢がいいこと書いちゃったけど、情勢はどんどん悪くなるし、この文章書いたの間違っていたかなあ、消した方がいいのかなと思っていた昨今です。状況が悪くなった今、あんた言ってること意識高すぎ!!と自分で自分を責めたくなったりしていました。
ただですね、でもですね、こんな時だからこそ、明るいことを書きたいなあと思って今夜も夜ふかししてます。
だって下手するとずーっとニュースばっかり追いかけて、心配ばっかりしてるんですもの。私は病の奴隷ではない。何かしら、明るくて楽しいことを書きたい。
今日買えなかった日用品にくよくよしたりもしてますが、不安に煽られるまい!今ここでがんばっててくださってる方もいる。病の水際で前向きに戦っていらっしゃる方がいる。落ち着かなくちゃ。
色々変わる日々の在庫情勢に一喜一憂することがありますが、家にいることが多くなり、大変のどかな日々でもあります。
先日はカレーのしょうがとにんにくと玉ねぎをうちの切れない包丁でごっとんごっとん切りました。いつもだったらこんなに細かくしないよって位、徹底的に粉砕です。
江國香織さんの短編「ねぎを刻む」と立原えりかさんの短編「タマネギ色のなみだ」を思い出します。これらを読んだ少女時代を思い出します。子供の頃はねぎを刻む主人公の感傷が大人っぽくて印象深かったけど、今思い出す彼女たちは今の自分よりずっと年下で頼りなくて傷つきやすくてガンバレヨと声をかけたくなるようなかわいい存在に思えます。としをとるものだなあ。
ひたすらひたすら玉ねぎを刻むと頭が止まって、詰まるところ料理の一工程を丁寧に作ったことになるけど、何か違う。この一心不乱な感じ。呪い?いや祈りに似てる。ジャムおじさんが「おいしくなあれ、おいしくなあれ」と言いながらパンを作ってるのって、綺麗事だと思ってたけどあれは真理なのかもしれん。やなせたかし先生って偉大だなあ。
フライパンに油を敷いたらマークが消えるまでフライパンを温める。タマネギを投入したら焦げやすいから火加減を見てひたすらにひたすらに炒める。おいしくなあれ、おいしくなあれ。なんなんだろうこの気持ち。食べてくれる人への愛、とも違う。そんなこびた気持ちではない。何か自己の欲求に満ちたこの気持ちは一体何なのかしら。命を祭壇に捧げる、なんかそんな気持ちだ。もらった命をいただくことに、最上級の礼を尽くす。食べてくれるあなたのために、より、もっと強くて、ブレない、何かがお料理の中に潜んで脈々としてる。しかも同じ高みを感じる。
そうね、怖い病気が流行って、命について考えたりもしたんだけど、そうねそうね、日々命をいただいているのね。その積み重ねがわたしの日々でありあなたの日々なのね。大切にしなくちゃね。感謝して、相手を尊重しなくちゃね。
それがこの間食べたバターチキンカレーのお弔いなのね。
死んだ命のために今日もがんばって生きよう。
(先日、情熱大陸で流行病の最前線で働く方のドキュメントを見ました。あの場所であんなに前向きに働く人がいるなんて人類の誇りだと、たくさんたくさん励まされました。わたしがのどかに暮らす中、大変な場所で働く皆様、本当に感謝しています。)
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