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9月2日 切り株というもの

雨上がりの公園を通りかかると、樹の下に猫が3匹集まっていた。
1匹は枝葉から零れる小雨のような雨粒から逃げてベンチの下、1匹はのびのびと樹の幹で爪を研ぎ、1匹は彼が気を削がれずリラックスして爪を研げるように(と、言わんばかりに)背筋を伸ばしてあたりを見張っていた。
3匹の性格や関係がそれぞれわかるようで、彼らにとっても私たちにとっても、三位一体1匹として欠かすことのできない落ち着いたバランスなのだと思った。

散歩は大抵毎日するけども、猫を見ない日はない。
ここにはリラックスした猫がたくさん暮らしている。

大抵毎日、って遠くから見ると 大晦日 に見える。

考えなく自然と接続詞に けど を使ってしまうのが未だにすごく気になっているのだけど(←これ!)、それは私が だけど を連想しているせいだと気づいた。
『さっき見たんだけど』とか『明日遠足だけど』とか、こういう使い方に続く言葉は大抵 だけど で表されるような反語が続かない。区切りとしての接続詞として だけど を置いているだけだ。
『昨日はそう言ってたけど』『最初は悲しいと思ったけど』こういう使い方は、大抵この後反対表現で話が続く、本来 だけど で表現される使い方だからそんなに気にならない。
と、思っていたんだけど、そもそも『さっき見たんだけど』と『昨日はそう言ってたけど』の けど は別のものだったのかも知れない。
両方同じ だけど だと思ってるから違和感があるのだ。
『フォークを使う』と『頭を使う』の 使う の差くらいには言葉の懐が広いように思われてきた。

3匹の猫のいた公園からしばらく行くと、大きな切り株があった。
この道にはたくさんの街路樹が植えてあり、今時期は豊かな雨と日差しで歩道を塞ぐほど育ってしまう樹もしばしばある。
その切り株は昨日までは逞しい大樹だったが、育ちすぎた幹を根元から引き切られ、あたりにはまだ片付けられていない木屑や葉が屍肉のように散らかっていた。
断面のすぐ下には立派に広がる太い根がそのままで、まるで肩のあたりで土に埋められて、首を切られた男のようだった。
昔日本にそういう刑罰があった……肩から下を地中に埋められた罪人の首に鋸があてられていて、通行人がいつでも自由に好きだけ引いていいのだ。
きっとだいたい、みんなひと引きふた引きしかしないからとても時間をかけて死んでいくのだ。
そわそわと遠巻きに見つめるような他の街路樹はそのままに、すくすく育ったばかりに首を斬られたその1本の大樹はとても悲しかった。
幼児のころ『森で音楽会を開く動物たち』を描けと言われたら、胸を張って指揮者を務める小熊や吟遊詩人を切り株の上に立たせた。
『誕生日パーティを開く森の動物たち』を描けと言われたら切り株の上にはケーキや料理が並び、時には青い鳥たちにその上で自慢の歌を披露させた。
要するに、切り株というものを自然と平和に満ちた人の手が入らない豊かな森の象徴として描いていたのだけど、切り株はどう考えても人の手が入っていると初めて気づいた。
テーブルになるほど美しい断面を作るにはきっとチェーンソーが必要だろう。
青い鳥達はどんな気持ちでそこに立ち、美しい歌を歌ったのだろう。
かつて森の仲間だった大樹の首の断面で……。
この後の人生でもし平和な森で仲良く暮らす動物たちを描く機会があっても、もう私は今日を境に切り株を描くことは無いだろうと、散歩道で密かに小さな分岐を進んだのだった。

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