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11/13 痛覚を用いる

痛い思いをしてもなおれば忘れてしまうとか、喉元過ぎればあつさを忘れる、というようなことは良い意味でも悪い意味でもつかわれることがあるけれど。
悪い意味で使われるとき、反面、痛みがいつまでも続いていれば反省を忘れずにいることができるというのかと
思う。
言われるように、喉元を過ぎればあつさを忘れてしまうような愚か者だという自覚があるのなら、痛みがいつまでも残るような、忘れる頃にまた痛みを覚えて思い出すような、そんな仕組みが必要なのかしらと。
生来では愚か者なのでは……痛みを忘れないように意匠をこらさねばならない。
ずっと昔からこんな風に、考えている。
昨日の反省を明日に活かし続けたいのなら忘れないこと、忘れないためには感覚と供に覚えること。
そして自ら作ることのできる自動的な感覚は、痛覚以外にあるだろうか?
痛みは多くの場合スイッチや条件を多く満たさなくても発現する。
意識をしていないときに、欲しいと思っていない時でも常にそこにあって、忘れることはできない。
まるで生や死のようだね。

今日はゼップトーキョーへ。
誘ってもらったライブはかっこよかったけど、ライブ中はこうした痛みと続くいのちのことを考えていた。
痛みはなぜ起こる、覚えるのかも。
かなしみは表情をころすよね。
だけど楽しくおしゃべりをする時間には、笑っていなくては。

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