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4月15日 人間の範疇

光のない暗所で何も見えないとき、厳密には明るくなって視えてなかった物がそこにあったのを視たとき、光をレンズに取り入れて屈折の情報信号を脳で視ているのだと改めて認識する。
そういう意味では実物を直接見てるわけではない、ファンタジーのように言われる見えている情景が真実とは限らないという考え方。
そうして視界を幻のように思うとき、例えば「色」とか何なんだろうといつも思う。

赤は血の色だから本能的に感情を昂らせるとか、青は自然の食材に殆どない色だから食欲が減退するとか、色の組み合わせでどうなる、こうなる……すべては人間のレンズだけの狭い世界の情報で、「赤」や「青」の本当の正体も知らずレンズと脳を経由した遠回しな情報を色と名付けて沢山の研究や定義付けを行なってきた、人間だけのために。

人間が人間の認識できる範囲で知識を堆積させるのは総てのことで当然なんだけど、何だか大切なことを見落としている感覚があってずっと違和感がある。
人間である限り、人間の器官で感じられることしか認識できないのがもどかしい。
「人間に認識できないことがある」という意識を含めてもそれを世界のすべてと思ってしまうのはもったいなくて悔しいことだ。

言葉を使う時も。
言語化するときも、人間という範囲から出られないことに違和感と悔しさでもどかしくなる。
言語で表現すると、人間の器官の限界を自ら知る。見ることも、聞くことも……。
「言語化することで失われるものがある」という考え方もこの限りだと思っている。

人間の器官でキャッチできないものを、感覚と呼ぶのだと思う。
感覚的な表現をする人の中には、前述のように自らの人間の範疇がもどかしく何とかその殻を破ろうとしている人もいるんだろうな。
人間の感覚を人間の感覚として楽しんで身をまかせている人も沢山いるだろうけど……。
例えば五十嵐大介さんの漫画を読んでいると、言語はもちろん視覚にすら頼らない人間の器官の外のものを表現していて、そういうところが好き。あとは、歌詞のない歌とか……。

自分が何かを感じたり発したりするとき、人間である限り人間の範囲を超えられないのがずっともどかしいという話。
性別に対しても同じことをずっと感じている。自分の性がどちらであれ、生物である限り器官として性別を離れられないことに。
縛られるのは嫌いなタイプ! という感じかな。

ところで最初に書いた視覚はレンズが捉えた光の屈折情報……とするなら、たまに幽霊が見える人がいるのってどういうことなんだろう。
私は多分見えないけど……眼球の、レンズの質が違うのかな。
もしくは幽霊の側に違いがあって、たまに光を捉えて屈折させちゃう体質の幽霊がいるのかな。幽霊にも色んな体質があるのかも。

午前6時、すっかり明るい。
実際何時に寝るかより、就寝する時外が明るいのにとてもストレスを感じる。
徹夜したのに終わらなかった……という恐ろしい体験がすっかり染み付いてるせいだと思うけど。
暖かくなってきたら、やっぱり4時には寝て、その分早起きでもしたい。

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