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11/19 知るとき

帰路にあり多分毎日のように視界に入っている……居酒屋の軒先にある大きく普遍的な赤い提灯が
その日だけは、非常に恐ろしく気になる。
気になる……。
よくある、よくある書体で書かれた黒字の『やきとり』もひどくおぞましい……。
なんと言っても、それは鳥を焼いたもののことだ。

なんということのない、普段気にもとめず意識の上を滑らせているこうしたものが気になって、とても恐ろしい気分になるときには、心が不安で満ち満ちている時だ。
怪我をしたとき痛みでそれを知るように、普段の景色でも視界にあるものにこうして妙に違和感を覚えるようになる時には、わたしは今とても健全でないと知ることができる。
また、そういう時はいつでも少しおもしろい。

焼き鳥を生き物を火で炙ったそれはそれは恐ろしいものだと考えたことがあっただろうか?
赤く大きい提灯が人の営みに対しても人の手の入らない大自然に対しても違和感のある、全く馴染まないものだと気付いたことはあっただろうか?

以前同じ気持ちを抱いたときには、誰かが道路から善意で拾いあげて木の枝に引っ掛けておいた赤ん坊の赤い靴下かたほうの落とし物を見た、
履く者なく、血の通わない木の枝を覆う赤はそれはもう恐ろしく見えた、特におぞましく思うことにはふたつ、
ひとつはその大きさ、生後1年も経っていないような赤ん坊の足のサイズは、人間というよりまだまだ胎児にほど近い。
同じ人間と思えないような、細胞のままであるようなその胎児というものは、どんなに違和感があっても紛れなく私の過去であったはず、それに全く覚えがないこと、憶えていたくもない。
胎児と同じく見えるほどの赤ん坊への恐ろしい未知、また未知でありながら私の過去そのものであること。
ふたつめには、とにかく気味の悪いこの光景が、持ち主がふたたび通ったときになるだけ綺麗なまま気づいてもらえるよう、と第三者が善意で作り上げたものであること。
親切のこころでかようにも恐ろしい光景が生まれるものかと。
落とし主やその身内ではないであろう、第三者という存在が突然ストーリーに現れるのも薄ら寒い。
赤い靴下が道に落ちているストーリーではその予定に無かった登場人物が突然死角から現れ、この恐ろしい光景をほんの一瞬でつくりあげた。
その上、その動機は何気ないほんの親切……そういえばしんせつとは、親を切ると書く……。

なんて、思ったものだった。
健全でない状態といえ、普段なかなか得ることのできない視点で世界を見ることができるのは楽しい。
その体験や感覚はいつでも得ることができるもほでなくてもしっかり憶えておきたい。
そのために、こうして書いておく。
赤ん坊の靴下の話をブログというものでするのは、2回めか3回めのことだ。

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